日本一古いパブリックコース「雲仙ゴルフ場」

雲仙は、昔は温泉(うんぜん)でした。早くからアジアに住む外国人の間では、温泉保養地として有名でした。大正4年の「温泉公園滞在外国人国別宿泊延人員表」という統計には、英米仏露など19か国3万3352人の名前が記録されているそうです。上海に住んでいたベストセラー「大地」の作者パール・バックもよく来ていたようです。

ゴルフがいつ雲仙に伝わったかは、はっきりしません。明治30、40年代になると海抜850メートル旧火口原の池の原、馬の放牧場で、馬たちの間を縫って派手な服装で棒切れ(ゴルフクラブ)を振る男女が目立つようになりました。それに目をつけたのが、県立雲仙公園を設定しようと企画していた長崎県当局でした。

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公園の目玉になるかも、と早速、在留英国人に相談して温泉ゴルフ場建設を計画します。そのとき動いたのが倉場富三郎で、オペラ「蝶々夫人」で知られるトーマス・グラバーの息子です。

大正2年8月14日、9ホール・3200ヤード・パー39のコースが開場します。設計はB・オーレス。香港在住の英国人で、コース設計はまったくの素人でした。神戸、横屋、根岸に次いで4番目、現存するコースとしては神戸につぎ2番目、パブリックとしては日本初、公営ゴルフ場第1号として誕生しましたが、なにしろ知識階級でさえ「ゴルフとはゴリラのことか」という程度の理解です。大正8年(1919年)には年間入場者16名という記録さえ残っています。

画像2: 日本一古いパブリックコース「雲仙ゴルフ場」

「このあたりに球落ちたりとさがす吾と 馬の鼻づらとならびけるかも」

とは下村海南の雲仙ゴルフでの短歌ですが、昭和になって日本人来場者も増えてきました。

戦争中は6,7番ホールが、赤トンボ機の離着陸演習に使われたりして敗戦、米軍接収と続きます。接収解除を記念した雲仙国際ゴルフ大会は今年56回目を迎えています。

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雲仙名物は、ボールをくわえて飛び去る、いたずらカラスです。餌となる虫が少なくなる11月、12月に特に多いとはコースの説明ですが、柳田国男は昔カラスに丸い餌を与えた「烏勧請」の習性が残ったのでは、と民俗学らしい解釈をしています。

画像4: 日本一古いパブリックコース「雲仙ゴルフ場」

雲仙岳とは山なみの総称です。最高峰が平成大爆発で有名な普賢岳です。溶岩流は島原側へ流れたため、雲仙ゴルフ場では、クローズは1日もありませんでした。

2007年ゴルフダイジェスト社刊
田野辺薫「一度は回りたいニッポンの名コース」より

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