本日2016年11月9日は、デビッド・デュバル45回目の誕生日。デュバルといえば、90年代後半に“タイガーのライバル”と称されるほど大活躍し、1999年には世界ランク1位の座に就いた。その後も2001年「全英オープン」でメジャー初優勝を果たす。しかし2002年に故障などにより成績は低迷。その後は目立った活躍はない。そんな彼のゴルフ人生を振り返ってみよう。

ゴルフ家系に生まれ、順調だったアマチュア時代~プロ転向当初

祖父も父もプロゴルファーという家庭に育ったデュバルは当然ゴルフを始める。ジュニア時代からその実力は秀でており、1989年の「全米ジュニア」を制覇。ジョージア工科大学時代にはオールアメリカンに4度選出されている。

大学卒業後1993年にプロ転向すると、すぐさま下部ツアーで2勝。1995年から本格的にPGAツアーに参戦し、1997年の「ミゲロブ選手権」でプロ初優勝を飾ると、翌週の「ウォルト・ディズニー・ワールド・オールズモビル・クラシック」でも優勝。この年は賞金ランク30位までの選手が出場できる年間最終戦の「ツアー選手権」でも勝利を収めた。

世界ランク1位となり、“タイガーのライバル”になる

1998年シーズン、マスターズは惜しくも2位に終わったものの、年間4勝を挙げ、初の賞金王に輝いた。そして1999年には、3月の「ザ・プレーヤーズ選手権」で優勝し、タイガー・ウッズを抜いて初の世界ランク1位になった。この年は開幕戦「メルセデス選手権」から4月の「ベルサウスクラシック」のわずか4カ月の間に4勝。まさしく世界ランク1位にふさわしい活躍だった。

この頃からタイガー・ウッズとの優勝争い、世界ランク1位争いがゴルフファンの興味をそそり、“タイガーのライバル”とも言われた。

画像: 2001年、太平洋C御殿場Cで開催された「EMCワールドカップ」では、アメリカ代表としてタイガー・ウッズとコンビを組んで出場した。

2001年、太平洋C御殿場Cで開催された「EMCワールドカップ」では、アメリカ代表としてタイガー・ウッズとコンビを組んで出場した。

2001年「全英オープン」で勝利し、“メジャー無冠”を返上

2000年は年間1勝に終わったものの、2001年「全英オープン」は悲願のメジャー初制覇を達成した。アーニー・エルスやダレン・クラークなど錚々たる顔ぶれが揃う大混戦となったが、最終日「67」を記録し、勝利した。“無冠の帝王”だったデュバルが、その汚名を返上する結果となった。

2001年「全英オープン」は、タイガーの連覇が期待されていたが、3日目まさかの失速。終始安定したゴルフを見せたデュバルが勝利した。

またこの年は、「ダンロップ・フェニックス」出場のため初来日すると、手嶋多一とのプレーオフの末、勝利した。

画像: 01年「ダンロップ・フェニックス」で、手嶋とのプレーオフを制し、日本ツアー初出場初優勝を果たした。

01年「ダンロップ・フェニックス」で、手嶋とのプレーオフを制し、日本ツアー初出場初優勝を果たした。

背中、腰の故障、婚約者との破局など重なる不幸で、まさかの大転落

順風満帆なプロ生活を送っていたデュバルだが、2002年になると急変する。デュバルは2000年に背中の負傷のため、ツアーを10週間も欠場したことがあった。その持病に加えて、この年スノーボードで肩を怪我したのだ。婚約者との破局も重なったこともあり、シーズン未勝利に終わる。また翌2003年には、頭位眩暈症だということが判明。頭位眩暈症とは三半規管に異常が起こる病気で、平衡感覚が大事なゴルファーとしては致命的といってもいい。

その後はシード権を失い、数年間はスポンサー推薦のみの限られた出場試合数でプレーする厳しい状況が現在も続いている。

世界を制した超“個性的”なスウィング

特徴的なのは、超フックグリップで構えるアドレス。そしてダウンスウィングでは身体を開きながらクラブを下し、ボールを見ない「ルックアップ打法」だ。教科書通りではない、この個性的なスウィングで世界のトップまで登り詰めたのだ。ちなみに上の連続写真は2011年撮影。体型がちょっと、いやかなり、往時に比べるとポッチャリしているのは否めない。

デュバルの復活を期待するファンは多い。タイガーと熾烈な優勝争いを演じた、あの時の輝きをファンは待っている。

画像: デビッド・デュバル メジャー1勝を含む、ツアー通算13勝。 かつては世界ランク1位に輝くなど圧倒的な強さを誇ったが、2002年から現在まで勝利は遠ざかっている。

デビッド・デュバル
メジャー1勝を含む、ツアー通算13勝。
かつては世界ランク1位に輝くなど圧倒的な強さを誇ったが、2002年から現在まで勝利は遠ざかっている。

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