松山英樹が2017年2月17日に開幕した「ジェネシス・オープン」で世界ランク1位に上り詰める可能性があるというニュースが世界中を駆け巡っている。ついに日本の若者がアメリカでツアーを牽引する時代がきたのかと思うと感慨深い。しかしそれもこれも先達が礎を築いてくれたから。そこで今回は先輩たちの“惜しかった列伝”をまとめてみた。

2017年復帰した伊澤利光の惜しかった‟軌跡”

現在開催中のPGAツアー、ジェネシス・オープンは以前ニッサン・ロサンゼルス・オープンの名称で開催されていた。舞台は同じリビエラCC。そこで2001年にあわや優勝のドラマを演じたのが伊澤利光だ。

画像: 同年に行われた「フィリップモリス・チャンピオンシップ」で優勝した伊澤。この大会でシーズン2億円を突破

同年に行われた「フィリップモリス・チャンピオンシップ」で優勝した伊澤。この大会でシーズン2億円を突破

当時ツアー屈指のショットメーカーとして知られた伊澤は、混戦模様の中トップタイでホールアウト。大会史に残る6人でのプレーオフのメンバーに割って入ったが、結果はロバート・アレンビーの頭上に栄冠が輝き、伊澤は2位タイに甘んじた。

もしあそこでバーディなら……そう思うシーンがある。最終日の17番パー5。伊澤のバーディパットはほんの一筋違っていた。あれが決まっていれば勝利の二文字は彼のものだったはず。ゴルフに“たられば”は禁物だが、なんとも惜しまれる1打だった。

全盛期の丸山茂樹の凄さを覚えておこう

その3年後の2004年、今度は丸山茂樹が同じ大会で優勝目前に迫っている。PGAツアー参戦中、ロサンゼルスに拠点を置いていた丸山にとって、自宅にほど近いリビエラCCはホームコースと呼んでも良いくらい日頃から練習に励んでいた場所。思い入れの強いコースでマイク・ウィアーに惜敗を喫し、4年連続4勝目はお預けとなった。

画像: 2003年「クライスラー・クラシック・オブ・グリーンズボロ」では、通算22アンダーをマークし優勝

2003年「クライスラー・クラシック・オブ・グリーンズボロ」では、通算22アンダーをマークし優勝

ちなみに丸山は2001年のグレーター・ミルウォーキー・オープン、2002年のバイロン・ネルソン・クラシック、2003年のクライスラー・クラシック・オブ・グリーンズボロで優勝しており(通算3勝)、特にバイロン・ネルソンでは全盛期のタイガー・ウッズやアーニー・エルスらを抑えて勝っているだけに価値が高い。

こんなに勝っているのだから、本来なら丸山は“惜しかった列伝”から除外すべきかもしれない。しかし今時の“一周回った世代”にも、今一度全盛期の丸山の凄さをわかって欲しい、そう思ってここに付け加えることにした。

松山英樹に受け継ぐ優勝のバトン

一方、松山が2連覇を達成したフェニックス・オープン(現ウェイストマネジメント・フェニックス・オープン)で2002年に存在感を示したのが横尾要(かなめ)だ。国内最強とうたわれた伊澤が「日本でドライバーが一番うまいのは要」と賞賛していたことがある。

画像: 2001年「ダンロップフェニックス」で優勝した横尾要。このとき、ギャラリーは4日間で4万人を超えたという

2001年「ダンロップフェニックス」で優勝した横尾要。このとき、ギャラリーは4日間で4万人を超えたという

その横尾がツアーいちギャラリーの多い大会で最終日に「64」をマークしリーダーボードを駆け上がった。最終的にはクリス・ディマルコに1打及ばず2位タイに終わったが、彼も日本人としてアメリカに爪痕を残したひとりに違いない。

また同世代の細川和彦も2000年の全米オープン前哨戦ケンパー・オープンで単独2位に入ったことがある。最終日の上がり2ホールで“あわやバーディ”が続き、それが入っていれば…と悔やまれる結末。特に最終ホールは絶体絶命のピンチからアプローチがピンに当たるスーパーリカバリーショットを放ったが惜しくもチップインならず。1983年青木功以来の日本人2勝目はお預けとなった。

もちろん先駆者・青木をはじめジャンボ尾崎、中嶋常幸の存在も忘れてはならない。さらには尾崎直道(1997年ビューイック・オープン2位がベストフィニッシュ)や田中秀道(2003年クライスラー選手権3位など)、今田竜二(2008年AT&Tクラシック優勝)といった面々が、松山や石川遼へと続く道筋をつけたのは言うまでもない。

日本ゴルフの歴史を引き継ぐ世代がこれからどんな戦いぶりを見せてくれるか? 想像するだにワクワクが止まらない。

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