華やかな舞台でスポットライトを浴びるプロゴルファーたち。だが現実には見えないところで血の滲むような努力を重ね、それぞれが光と影を背負いながら必死の戦いに挑んでいる。年の瀬、各賞の発表や表彰など景気の良い話が飛び交う一方でプロゴルファーという職業に見切りをつけ第二の人生をスタートさせる者もいる。

ディーン・ウィルソンを覚えているだろうか? リッキー・ファウラーのミドルネームは「ユタカ」だがハワイ出身のウィルソンは「ヒロシ」のミドルネームを持つ日系人ゴルファー。2001年に日本プロゴルフ選手権と日本プロゴルフマッチプレー選手権、ダブルで日本タイトルを獲得するなど国内通算ツアー6勝をマークした。

2004年に米ツアーに転じると2006年のジ・インターナショナルでトム・レーマンとのプレーオフを制して初優勝。しかしその後はパッとした活躍もなく表舞台から姿を消した。

その彼が50歳(1969年生まれ)を目前に米ゴルフ専門サイトのインタビューに応えている。

まず驚かされたのが「5年前に完全にプロゴルファーから足を洗った」という発言。「21歳でプロになって23年。一年のうち35週は旅から旅のホテル暮らし。1週間に60時間ゴルフをして結果に一喜一憂する生活に飽き飽きしてしまったんだ。きっぱり見切りをつけていまはサンディエゴに住んでエンジョイゴルフしているよ」

画像: 日本ツアー通算6勝をマークし、米ツアーで1勝を挙げたディーン・ウィルソンの第2の人生とは?(写真は2001年の宇部興産オープン 撮影/南條善則)

日本ツアー通算6勝をマークし、米ツアーで1勝を挙げたディーン・ウィルソンの第2の人生とは?(写真は2001年の宇部興産オープン 撮影/南條善則)

じつはウィルソン、日本で成功するまでの道のりは険しかった。ブリガムヤング大学ゴルフ部時代は将来を嘱望される存在で、ルームメイトはレフティ初のマスターズチャンピオン、マイク・ウィアー。

「同世代にフィル(ミケルソン/1学年下)がいてプロ宣言した頃にはタイガーが現れた。レベルが違い過ぎて逆立ちしても叶わないと思ったよ」

卒業後は米ツアーのQスクール(編注:PGAツアー出場のための予選会の旧称)を受験するも周囲の期待を裏切って落ち続け、戦う場を求めてカナダやオーストラリアを転戦。その後アジアに活路を求め日本で実力を開花させるのだが、米ツアーで戦う夢は諦められず「9度目の(Qスクール)挑戦でようやくツアーカードを手にすることができた」

米ツアーではビッグイージーことアーニー・エルスとウマが合い活動をともにすることも多かった。
特に印象に残っているのが初優勝したジ・インターナショナルのラウンド後のできごと。

「結果はプレーオフだったし、そのあと記者会見もあってロッカールームに帰ったら文字通りひと
っこひとりいなかった。でもエルスとキャディのリッキーが(隠れて)待っていてくれたんだ。その晩は3人で飲み明かしたよ」

酔いが回るとエルスがウィルソンに「レスリングをやろう」といい出した。「もちろん拒否したよ。
でも彼が猛然とアタックしてきて危うく怪我をさせられるところだった(苦笑)。あのデカイ体でかかってこられたら大変だよ。彼は本当にクレイジーなんだ(笑)」

念願の勝利。だがなぜ勝てたのか? いつもの自分とどこが違ったのか? 「それがまったくわからなかった」。だからキャリアを重ねてもあのときの瞬間=優勝を再現することはできなかった。

「もう限界だ」と思ったのが5、6年前。「ホテル暮らしがほとほと嫌になった。だからチャンピオンズツアーにも参戦しない。家を離れホテルのレストランで食事をする生活はもう2度としたく
ないんだ」

現在もレッスンは行っているが将来的にはプロを育てたいという思いがある。「誰かの役に立てたらそれはうれしい」。

「もともと試合より練習ラウンドの方が好きだったんだ。華やかな舞台に戻りたくないのか、
ってよく聞かれるけどまったく未練はない。いまの方がゴルフが楽しいよ」

引退を自ら決断し第二の人生を謳歌する。決して悲観的ではないウィルソンの生き方は“プロゴルファーの末路”ではない。前向きな人生の選択だ。

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