クラブと同様ボールも日々進化し続けている。マナー研究家・鈴木康之は練習場で買うビニール袋入り六個800円か900円のボールを使用しているという。本の中で出会った“明治生まれの男たち”から教わった、質素だが豊かなゴルフライフを、自身の著書「脱俗のゴルフ」から紹介。

おい水よ 俺の命を奪うな

古いゴルフ書での調べものがなかなか探せないため、数日間、昭和初期へタイムスリップ。ついでに明治生まれの男たちのゴルフライフを覗き見することができました。

みんな質素でした。物の数量に限りのある時代、質素であらざるを得なかったわけでしょう。このボール一個とこのクラブ一本、どっちがなくなってもこの愉快を楽しめなくなる、そういう緊張感があったかに窺えます。

ニューボールをティアップするのは盆か正月。ふだんは拭いても白くならないお古ボ ールだったに違いありません。草むらに隠れ込んだボールを必死に探し出す話、クラブを錆びないようよく磨いてからしまう話などに出会えます。 思うにこの時期まで、日本のゴルフもスコットランド流だったのではないでしょうか。

画像: ニューボールを使うのは盆か正月か。モノがないからこそ、モノを大切に扱うという当たり前のことを、明治生まれのゴルファーたちはしていたという(撮影/姉崎正)

ニューボールを使うのは盆か正月か。モノがないからこそ、モノを大切に扱うという当たり前のことを、明治生まれのゴルファーたちはしていたという(撮影/姉崎正)

米国でさえその頃までは英国流だったはずです。何が何でもボールを探し出す。ブッシュと言ってもしょせん植物。球が入ったところを探せば見つかりました。一番をティオフしたポールで旅をし、十八番グリーンまで運び、カップを鳴らして、さあ戻ったぞ。元来そういう遊びでした。

国はどこであっても人さまざま。上流倶楽部ありパブリックコースありでさまざまでしょう。そう断わった上での話ですが、いまでもおおむね英国人は、昨日のボールを今日も使い、見失っても規定時間内、執念深く探します。

米国人はどうでしょう。少ない経験からですが、池に入れた時の諦めは早い。いまは日本人も池のニューボールを惜しげもなく諦めて行きます。ボールはチューインガムのような消耗品になりました。「コースにアメリカが水を持ち込んだ。彼らは水がなければコースにならないと考えているようだな。まったくナンセンス」とスコットランドの老友、 ビル・ベックが怒っていたのを思い出します。

池にボールをとられ、回収不能になることが、トラディショナルなビルには承服しがたく、だから米国旅行なぞ論外。故国を離れません。

私もまったく同感。池はボールの継続性を絶ち切ります。その上に、安くないグリーンフィに加えて人の物を奪い取るから気に入りません。

池ポチャの癪だけが理由ではありませんが、私のニューボールは練習場で買うビニール袋入り六個八百円か九百円のもの。ちゃんとしたブランド物です。それを擦り傷、ささくれになっても使い続けます。数年前の週刊ゴルフダイジェスト誌の試打レポート記事『いまどきのボールは、傷がついてもへっちゃらだった』には快哉を叫びました。おニューとの差はドライバーでヘッドスピード四十五の人でニヤード未満、四十の人で一ヤード前後。私らにはまったくノープロブレムです。

そんな安物の古傷ボールであっても、グリーン手前の理不尽な池に捕まると、「ドロボー」と怒りたくなります。池さえなければピンそばだったのに。ビルなら大声で訴えるでしょう、「そのボールは、俺の命なんだ」と。

「脱俗のゴルフ 続・ゴルファーのスピリット」(ゴルフダイジェスト新書)より。

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