大会史上最北端の地、北海道、小樽で1990年日本オープンは開催された。深いラフ、狭いフェアウェイがすべてベント芝。そして距離もたっぷりある難 しいコースセッティングに苦しめられながらも、見事優勝の栄誉を手にしたのは中嶋常幸だった。優勝者のみが主役なら、2位は脇役でしかな い。が、大会3連覇を賭け、あと一歩のところで敗れ去った尾崎将司の戦いぶりは、まさにもうひとりの“主役”であった―――。

選手が最終日の最終ホールに向けてゲームを結晶化していくように、観戦子もその試合の大団円が近づくにしたがってシテとワキに焦点を絞りながらストー リーを煮詰める作業にとりかかる。この試合、勝っても負けても仕手は尾崎将司に演じてもらわねばなるまい。

東京俱楽部で勝ち(88年)、名古屋和合で勝ち(89年)、そして、小樽で勝てば日本オープン史上誰もが果たせなかった3連勝を達成する。

尾崎自身もそ のことを意識しているかどうか分からないが、日本オープンを他のスポンサー競技と別格視していることは確かなことである。過去60余年にわたる伝統がある。この先も脈々としてそれは受け継がれる。日本のゴルフ界がこぞって誇りとするようなトーナメントである。

画像: 1990年日本オープン(小樽CC)
「誇りある敗者」その①

尾崎は“誇り”とか“伝統”というものをに敬意をはらうタイプの人間である。ジャンボ アズ ナンバーワンという目で世間は彼をながめ、彼はその目 で仕手を演じることに誇りを持っている。3連勝のかかった「日本オープン」でどう演じてくれるのか。ファンの関心はすこぶる単純なのだ。

2年前の東京で、優勝を決める僅か80センチほどのパットを打つときに、顔を歪め2回も仕切り直したあの場面ほど、尾崎の心中にわけのわからぬ複雑な 思いが交錯してることを見せつけたシーンはない。去年の名古屋で、17番のバンカーから人間わざとは思えないほどのショットをしてチップ インさせた場面ほど、尾崎の心中に働いた精神集中の結晶度の高さを見せつけたシーンもない。

ファンの関心 はいつも単純である。入れるか外すか。寄せるか寄せないか。真っ直ぐ飛ばすか曲げるか。勝つか負けるか。単純だから想像力をかきたたせることが出来る。

画像: ギャラリーの視線の先には、戦う男の背中

ギャラリーの視線の先には、戦う男の背中

2日目のプレスインタビューで尾崎はつぎのように言っていた。

「自分のゴルフでいかにしてこのコースと戦うかだ。ワンショット、ワンショット、自分の打ちたいショットをする。その積み重ねだ。だから集中力は増す んだけど、バーディの数が少ない。これだけいい天気で2アンダーだものね。やり甲斐はある。だけど目標は立てられない。3連勝をしたいと か、絶対にやりたいとか、そんなことまで意識する余裕はない」

画像: 険しい表情でインタビューに答える尾崎

険しい表情でインタビューに答える尾崎

2日目終了時の談話としては穏当な内容である。人を相手にしない。コースを相手にプレーする。気を緩めずに一打一打、集中力を込めて打つ。72ホールのうちの半分が終わったばかりなのだ。「140」というスコアは尾崎には過不足ない数字だったと言えよう。

首位の中嶋とは1打差である。この差はないに等しい。3日目は同じ組で回る。そのことはプレスの誰もが知っていた。しかし、相手は人じゃない。コース だ、と尾崎は言ったのである。偽りのないところであろう。

(1991年1月、チョイスVol.60より)

その②の記事はこちら↓↓
「誇りある敗者」その②“オザキ”という精巧な体が生み出した3日目の「68」

その③の記事はこちら↓↓
「誇りある敗者」その③尾崎は足踏み中嶋がジワリ 2打打差に。インへターンした

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