ゴルフのない週末に読みたい「週末コラム」。今回はプレースタイルのまったく違う往年の名プレーヤー、ジャンボ尾崎と青木功のライバル関係に迫ります。

青木功と尾崎将司は、両極に位置するプロゴルファーだ。その性格もゴルフスタイルも、そしてもともとは球筋も両極であった。青木はフックで飛ばし、尾崎はスライスで飛ばしていた。

両極に位置することで、さまざまなエピソードを残すことになる。

1971年の日本プロ選手権でプロ入り初優勝した尾崎は、この年、通算5勝をあげている。ジャンボという愛称もすでに定着し、その勢いは疾風のように駆け巡った。

画像1: 尾崎将司と青木功。両極ライバル物語【前編】

そういう尾崎に触発されたのが、青木功である。プロ歴は青木のほうが6年ほど長かった。デビューの頃、青木は「東京タワー」と仲間から呼ばれていた。のっぽでスラリとしていて、そして飛ばし屋だった。もの凄いフックボールを打っていた。

青木はどちらかといえば、その日暮らし的なゴルフ生活を送っており、さしたる成績も残していなかった。

当時、試合数もさほど多くなかったし、トーナメントにだけ神経を集中するよりも、もっと分散してなにがしかの賞金が入ると、競輪や競馬、麻雀、あるいは遊興費に全部使うという生活がほとんどだった。

画像2: 尾崎将司と青木功。両極ライバル物語【前編】

きっと青木を心底から挑発させるほどのライバルが、それまで見当たらなかったのだろう。尾崎の登場は、青木にとって衝撃的だった。青木の初優勝が1971年の関東プロ選手権で、奇しくも尾崎の初優勝年度と同じことからでも理解できる。

この年から尾崎は4年連続で賞金ランキングのトップに立っていた。その翌年が村上隆。青木功が賞金王になったのは1976年からである。

青木は持ち球であるフックボールが土壇場での致命傷になって、日本オープンを二度逃していた。

もっとも典型的なのは、1973年の日本オープンである。雨の中での最終日、土壇場で極度のフックボールを出して池に入れ、ベン・アルダに敗れた。

フックからスライスへと球筋を変えたのは、この年のオフである。

いつのまにか青木は、尾崎という男に誘導されていたのかも知れない。もともとゴルフの才能に長けていた男である。その才能を発揮させるのに、何かが欠けていたのだろう。その導火線に火を付けたのが、尾崎といってもいい。

画像3: 尾崎将司と青木功。両極ライバル物語【前編】

フックからスライスへ、という球筋の180度の変更も、直接的にはその原因が尾崎というわけではないだろうが、尾崎のライバルとしての対抗意識から自分を磨きあげていったといういみでは、大きな影響を尾崎から受けている。

青木が本当に強くなったのは、1978年からだ。それまで国内で19勝をしていたが、この頃から勝ち方が微妙に変化していた。

(1990年1月チョイスVol.52)

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