長野新幹線が開通してからというもの、「軽井沢」がグッと近くなった。東京から1時間ちょっと、憧れの避暑地に到着です。
軽井沢でゴルフといっても、手軽なミッドコース(9ホール、パー33)のプリンスゴルフコースから、軽井沢72の東コース、北コースのようなチャンピオンコース。晴山ゴルフ場は、手引きカートで「早朝、薄暮」も大人気のカジュアルコース、と様々です。
その晴山ゴルフ場に隣接しているのが、日本で最もプレーするのが難しいといわれる「軽井沢ゴルフ俱楽部」です。
会員数は準会員をあわせて600人以下とも言われ、プレーするのも難しければメンバーになるのは、もっと難しい、と言われています。
ある夏の日曜日、田中角栄が総理大臣だったときにアメリカ大使を連れ、プレーさせてほしいとやってきた。白洲次郎理事長は「日曜日はメンバーズ、オンリー」と流暢な英語で大使にお断りしたというエピソードは有名である。
「規則は規則だ」。白洲次郎はプリンシプルの持ち主。アメリカ大使だろうと例外は認めなかった。
のちにメンバーとなった田中角栄だが、汗かきで「腰手ぬぐい」を改めなかったことが俱楽部で問題となったとき、白洲次郎は「腰手ぬぐいは、角栄さんの必需品」と笑い飛ばしたという。
さらに、超名門でありなが服装は開放的。白洲次郎は「リゾートコースなのだからTシャツでもオッケー」とし、自ら「PLAY FAST」と書かれたTシャツを愛用し、コースを回りながら、この精神をPRしたそうだ。
すべてのゴルファーは平等。誰かひとりが時間を多く使うことは許されない。要する打数が多いのなら、一打にかける時間は短くしなければならない。
白洲次郎に言わせれば「下手がラインを読むなどもってのほか」。長すぎるアドレスもミスのもとだ。
1番、10番に向かうテラスの大時計の下が白洲次郎の定位置。ここから睨みを利かせ、スロープレーヤーを見かけると、どんな偉い人にでも面と向かって注意したという。
白洲次郎(1902年 - 1985年)は戦後、時の首相吉田茂に請われて現在の日本の原型をつくった人として知られる。ゴルフは14歳のときに3ヶ月だけやり、英国留学時代はやらなかったという。理由は「モテないから」。本格的にやり始めたのは28歳から。ハンディ2までなっている。50歳の時、軽井沢ゴルフ倶楽部の理事に、74歳で常任理事に就任。この時、倶楽部方針の「第一義」に掲げたのが、この「PLAY FAST」だった。
まだまだある! 軽井沢ゴルフ俱楽部の特徴
●クラブハウスに個室がない。
●予約システムがなく、原則会員は来場順にスタート!
●いつでもトーナメントが開催できるくらい完ぺきなコンディションに仕上げられている
●会員の推薦があれば、夏の一時期を除けばビジターのラウンドは可能だが「プロゴルファー」は出入り禁止。
●新聞記者、警護、秘書や運転手などプレーヤー以外のクラブハウス立ち入り禁止。
長野県北佐久郡軽井沢町南ヶ丘3000
18ホール/6726ヤード/パー72/コースレート73.0
コース設計/小寺酉二
開場/昭和6年7月1日