1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材し、現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員として活動する吉川丈雄がラウンド中に話題になる「ゴルフの知識」を綴るコラム。第21回目は、アーノルド・パーマーとケン・ベンチュリーの間で起こった出来事について。

わだかまりを生んだ“60年マスターズ”

画像: 94年に撮影されたアーノルド・パーマー

94年に撮影されたアーノルド・パーマー

プロに転向したアーノルド・パーマーは若く見栄えもよく攻撃的なプレーからたちまちツアーの人気者となっていった。愛想もギャラリーへのサービスもよく、パーマーを応援するギャラリー数は増え続け、多人数で移動することからパーマーの応援団はいつしか“アーニーズ・アーミー”と呼ばれるようになった。時代はテレビが普及し、家庭にいながらツアーを楽しめ、近くで試合が行われればこぞって「アーニーの応援」に行くことになり、ゴルフというスポーツが人気スポーツと認識され始めた時代だった。

パーマーはデビューした1956年に早くもカナディアンオープンを制すると、71年まで毎年勝利を重ねメジャー7勝を含むツアー62勝を挙げている。58年に賞金王となると60、62、63年も賞金王の座につき、ゴルフの祭典と呼ばれマスターズも制した。58年は強かっただけではなく早くもツアーの人気者だった。

この物語のもうひとりの主役であるケン・ベンチュリーは、1956年にプロ転向。それまではアマチュア選手として競技に出場し、日頃はリンカーン・マーキュリーのディーラーで働いていた。なお、この会社は米国有数の規模を誇るディーラーで経営者はエディ・ローリー(※)だった。
※エディ・ローリーは1913年全米オープンでアマチュアのフランシス・ウィメットが強豪のハリー・バードン、テッド・レイを破った時にキャディで当時、僅か10歳の少年だった。その後にサンフランシスコに出てビジネスを成功させサンフランシスコGC、サイプレスポイントC、オーガスタナショナルGC、セミノールGC、サンダーバードGC、カリフォルニアGCなど米国を代表する超一流クラブの会員になり、いくつかのコースでクラブ選手権を制し、生涯アマチュア選手として活躍し、全米ゴルフ協会の役員としてゴルフの普及に努めた。そして、トップアマチュアのケン・ベンチュリー、ハービー・ウォードを従業員として雇い、経済的な支援をし“シャンパントニー”ことプロのトニー・レマのスポンサーでもあった。

58年のマスターズに出場したパーマーは70、73、68、73でマスターズを制したが、最終日の12番パー3でパーマーのショットはグリーンを外し、ボールは無情にもぬかるみに食い込んでしまった。パーマーは救済を求めたが、競技委員は「あるがまま」を主張。そのまま打ったパーマーはダブルボギーとしてしまった。

だが納得のいかないパーマーは暫定処置として第2のボールをプレーしてパーとした。マスターズ委員会はパーマーの救済処置を認め、12番のスコアはダブルボギーではなくパーとした。ベンチュリーは不快感を示し、スコアにサインすることを拒んだが委員会に説得されやむなくサイン。もちろん気持ちは全く晴れなかった。なぜなら最終的に4位タイだったとはいえ、パーマーがダブルボギーなら自身が名誉あるマスターズの勝者になった可能性があったからだ。

そして2年後の60年マスターズ。最終日首位でスタートしたパーマーを1打差で追うベンチュリー。ベンチュリーはパーマーに1打差をつけ先にホールアウトし、記者は優勝インタビューの準備、ベンチュリーの勝利を確信した委員会は小切手やグリーンジャケットの用意を始めた。 

だが、パーマーは大詰め17番で9メートルを沈めバーディ、18番の2打目を6番アイアンで打ちワンピンに付けての連続バーディとした。グリーンジャケットの袖を通したのはパーマーだった。

ベンチュリーはアマチュア時代の56年最終日にジャック・バークJrに8打差をひっくり返されてマスターズで敗れていた。マスターズに勝ちたくてプロ転向したのに58年、60年マスターズでの出来事でパーマーとの間にわだかまりを残すことになり、2人は生涯にわたり和解することはなかった。

文・写真/吉川丈雄(特別編集委員)
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースやゴルフの歴史のスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動中

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