都心の真ん中、芝増上寺の一角がパー3のゴルフコースだった

霞ヶ関カンツリー倶楽部(昭和12年根岸クラブとの試合後)
戦後の高度成長期はビルや道路が整備され、経済は右肩上がりが続いていた。日々の生活が豊かになるにつれて各家庭で電化製品が使われるようになり、テレビも普及し「もはや戦後ではない」と言い放つ政治家も現れた。そんな時代を背景に、東京オリンピックの開催が決定された。
1957年には霞ヶ関CC東コースで行われたカナダカップに中村寅吉、小野光一が出場し、欧米の強豪選手を破り団体優勝、中村は個人優勝を果たす快挙だった。その結果、日本中にゴルフブームが起こり各地にゴルフ場建設の計画が立案され数年後には多くのコースが誕生することになった。
63年には第1回日本グランプリが鈴鹿サーキットで行われ、モータリーゼーションの幕開けのきっかけとなり、64年10月1日に東京、新大阪間を新幹線が開通し高速鉄道の時代が始まった。
東京オリンピックは、開催地を決める投票で2位デトロイトの10票を大きく離す34票を獲得し、64年10月10~24日の開催となった。アジア、そして有色人種国家では初めてのオリンピック開催だった。

06年に撮影された霞ヶ関カンツリー倶楽部
オリンピック開催に関して、都内では首都高速道の建設が始まり、東京都内は躍動感で満ち溢れてもいた。そんな中、海外から押し寄せる観光客のための宿泊施設が不足するという予測があり、大型ホテル建設も始まった。
都心の港区に広大な敷地を誇る徳川家康の菩提寺である芝増上寺。その一角はパー3のコースだった。かつてプレーをしたことがある作曲家の神津善行さんに会ったとき「一番長いホールは200ヤード以上あってドライバーが打てた」と話してくれた。確かに自分が中学生の時、芝増上寺の近くを通ったとき、都心のど真ん中でプレーをしているゴルファーの姿を見て驚いた記憶がある。
当時、そのコースを運営していたのは西武グループで、オリンピックでホテルが足らないことから東京プリンスホテルの建設に動いた。
現在はザプリンスパークタワー東京になっているが、芝増上寺の西端には3階建ての練習場、レストラン、ボウリング場、プールなどの施設もあった。
3階建ての練習場は250ヤード程あり、場所もよく1日中混んでいた。特に週末には3時間待ちという時代もあった。近在のゴルファーは受付を済ますと一旦家に戻り、時間を見計らって再度来場していたほどだ。構内には本格的なレストランがあり、高額だったが寿司も食べることができた。
ゴルフダイジェスト社から歩いていける距離にあったことから、新製品のクラブの試打などでよく使った。余談になるが、練習所にいて顔見知りになったスタッフが、後に軽井沢72の支配人になり軽井沢で再会、そして西武が川奈ホテルを手に入れた後、川奈の支配人になり川奈でも再会するということがあった。
文・写真/吉川丈雄(特別編集委員)
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースやゴルフの歴史のスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動中