日本のゴルフ界を牽引し続けた「ジャンボ」が、天国へと旅立った。 12月24日、尾崎将司の長男・智春氏より、プロゴルファーの尾崎将司が12月23日午後3時21分、S状結腸がんのため永眠したことが発表された。享年78。JGTO会長の諸星裕、およびジャパンゴルフツアー選手会会長の谷原秀人がコメントを発表した。以下に全文を掲載する。
画像: 12月23日に永眠したゴルフ界のレジェンド尾崎将司(写真/17年ダンロップフェニックス。撮影/岡沢裕行)

12月23日に永眠したゴルフ界のレジェンド尾崎将司(写真/17年ダンロップフェニックス。撮影/岡沢裕行)

【一般社団法人日本ゴルフツアー機構 会長 諸星裕のコメント】

画像: JGTO諸星裕(写真は25年JGTOアワード、撮影/姉崎正)

JGTO諸星裕(写真は25年JGTOアワード、撮影/姉崎正)

突然すぎる訃報に接し、絶句しました。
ゴルフ界は、あまりにも偉大過ぎる方を失ってしまいました。
プロ野球選手からプロゴルファーに転身して間もなくした1970年代前半から頭角を現し、その活躍は2000年を超えてもなお、続きました。
常に第一線での活躍で男子プロゴルフ界を長きにわたって牽引し、他を寄せ付けない圧倒的な強さで、これほど力の衰えを知らないプロゴルファーを、私は見たことはありません。
1973年のツアー制施行後に積み重ねた勝利数は、94。
あまりにも圧倒的な強さでした。
男子プロゴルフのトーナメント記録には、『尾崎将司』の名が“これでもか”というくらい多く出てきます。
賞金王に12回もなっていたり、そのうち5回は連続して賞金王になっていたり、15年連続で優勝していたり、55歳241日にして優勝していたり、32年続けて賞金シード資格を獲得し続けていたり、66歳にして62ストロークという驚異的なスコアを出してエージシュートを達成していたり・・・。
そんな記録はここには書ききることができないほどです。
記録とともに、強烈に記憶にも残るキャラクターの持ち主でもありました。
第一線を退いて以降は、後身の育成に力を入れられ、近年ではその力が大きく開花しています。
実は、ジャンボさんと私は同級生です。
あまりにも早すぎます。
でも、そんなジャンボさんの遺志は、間違いなく引き継がれていきます。
安らかにお休みください。

【ジャパンゴルフツアー選手会 会長 谷原秀人のコメント】

画像: ジャパンゴルフツアー選手会 会長 谷原秀人(写真は25年ロピア フジサンケイクラシック、撮影/姉崎正)

ジャパンゴルフツアー選手会 会長 谷原秀人(写真は25年ロピア フジサンケイクラシック、撮影/姉崎正)

訃報に接し、ただただショックを受けています。最大限の敬意と感謝をこめて、ジャンボさん、と呼ばせていただきます。ジャンボさんには僕がプロ転向してすぐの頃から、とてもかわいがっていただきました。
2003年の「マンダムルシードよみうりオープン」で、ジャンボさんを逆転して初優勝できたときにはなんだか急に一人前になれた気がして、胸が震えるほど嬉しかったことを、今でも覚えています。
ファンのみなさんには豪快で、憎らしいほど強いイメージしかないかもしれませんが、ジャンボさんほど繊細で、シャイで、優しくて、面倒見のよい人はいません。僕もよく練習を見ていただきました。30 歳のころからジャンボさんのご自宅にもお邪魔させていただけるようになりましたが、そのたびにすさまじい練習量とゴルフ愛にも圧倒されるばかりでした。
肋骨が折れている、とわかっても「ヒデ、大丈夫だ。原因が分かったからいいんだ」と笑って、痛いのに練習をやめようとしない。ジャンボさんのライバルの青木さんもそうですが、このお 2 人のゴルフ熱に勝てる人間は、この世界に誰もいない、と僕は思っています。
今年になってかなり体調が悪いと聞いていましたが、病名や症状は誰にも明かさなかった。たぶん、そういう姿を誰にも見せたくないし、知られたくなかったからではないか。
最後の最後まで、そういう美学を貫く姿にも、真のプロゴルファー像を見せていただいた思いです。
長嶋茂雄さんを崇敬されていた。まさか、同じ年にジャンボさんまで失ってしまうとは。
もっともっとお話がしたかった。もっともっと、教えていただきたいこともたくさんありました。今はただ哀しくて、寂しくて、無念の思いで一杯です。
ジャンボさんと過ごした時間と思い出は、一生忘れません。これからも、僕らのことを見守っていてください。よろしくお願いします。

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