
94年の日本オープン(四日市CC)では、2位に13打差(-18)という圧倒的な強さで優勝を飾った
式典が始まる前、祭壇脇のモニターでは、ジャンボ尾崎の歴戦の映像、栄光の映像が流されていた。ゴルフファンならずとも、過去に何度も目にしたことのある名シーンの数々だ。しかし、その圧倒的な威圧感、勝利への執念が滲み出る表情に、思わず食い入るように見入ってしまう。改めて、彼がいかに強く、そして人々を惹きつけてやまない真のエンターテイナーであったかを痛感させられた。
戦友、相棒、そして兄弟たち。彼らが語った言葉から、知られざる「ジャンボ」の姿を紐解いていく。
青木功「お前は、俺の生涯のライバルだ」
祭壇の前に立った青木功は、真っ直ぐに遺影を見つめ、静かに語りかけた。かつて「AON」として日本ゴルフ界の黄金時代を牽引した最大のライバル。青木の言葉には、長年競い合ってきた者にしか分からない、深い敬意と親愛の念が込められていた。

「ジャンボとはお互いにしかわからない阿吽(あうん)の呼吸のようなものがったんだよ」
「ジャンボ……。今ここで弔辞を読むことなど、まったく考えていなかったよ。昨年末に突然の知らせを受けて、自分は何と言っていいのかわからず、ただただ、大切な戦友を失い、大きな喪失感でいっぱいだった」
青木は、昨年秋に体調を崩していたジャンボに会いたいと願ったが叶わず、ようやく対面できたのは彼が旅立った後だった。しかし、その際に聞いた療養生活や、親族や弟子に遺したコメントを聞き、最後まで「ジャンボ尾崎」を生き抜いたその姿に、改めて存在の大きさを感じたという。
「圧倒的な飛距離でデビューしたとき、あのメタルヘッドを使い出したとき、正直、この時は誰もジャンボにはかなわないと思った。でも、そんな超えるべき大きな壁のおかげで、自分のゴルフをどう進化させ、変えていくか、そして限界を超える努力を忘れずにいられた。青木功のゴルフが確立できたのは、お前さんがいたからなんだ」
青木はかつて、ジャンボに「お前さんがいなかったら、俺はとっくに終わっていた」と伝えたことがある。それは嘘偽らざる本心だった。自身の80歳のお祝いでジャンボがスピーチをしてくれた際、「でも、僕のライバルはタイガー・ウッズだ」といたずらっぽく笑った顔を、今も鮮明に覚えているという。

74年のワールドカップではペアを組み戦った2人
「お互い、切磋琢磨しながら日本のゴルフ界を引っ張ってきた。自分が(JGTO)会長を降りる頃、ジャンボが知人に『もう青木さんを休ませてあげて。俺と違い、日本のゴルフ界の前面に立って戦ってくれた。もういいんだよ』と話していたと聞き、本当に嬉しかった。お前が何と言おうと、自分の人生、生涯のライバルはジャンボだ。絶対忘れないからな」
式典後の取材でも、青木は「俺とジャンボは阿吽(あうん)の呼吸で通じるものがあった。それは何かと聞かれても、二人にしか分からないんだよ」と、言葉を超えた絆を強調した。
キャディ・佐野木計至が語る「昭和の侍」の素顔
ジャンボの傍らで数多の勝利を共にしてきた専属キャディ、佐野木計至。徳島県宍喰(ししくい)で共に生まれ、小・中・高と同じ時間を過ごした幼馴染だからこそ知る、ジャンボの原風景が語られた。

ジャンボの活躍を支えたエースキャディの佐野木計至。「まだ実感が湧きません」
「先輩は昔から不思議な運を持っていた」と佐野木は振り返る。1964年のセンバツ高校野球では、通常四国からは2校だったのに、その年だけ3校選ばれた。しかも海南高校は部員わずか14名で初出場初優勝を成し遂げてしまった。その9回裏2アウト満塁、フルカウントという極限の場面で、ピッチャーの尾崎は、緊張でひざが震えている一塁手の佐野木にこう声をかけた。
「おい見ろ。飛行機が飛んでるぞ」
悠然と空を見上げるその胆力。「先輩はおおらかで優しくてすべてが大きかった」。大人になっても喫茶店にも行かず、スマホも持たない。外出嫌いで頑固なその生き様は、まさに「昭和の侍」そのものだった。
40歳からの64勝という驚異的な記録。その裏には、スランプのどん底で決意した山籠りや、一切の妥協を許さない練習があった。
「優勝がかかった勝負どころのパッティングで、『佐野木、どうだ。右カップ一杯、間違いないな?』と聞かれ、『イエッサー』と答える。そこから見事に沈め、ガッツポーズ。あのしびれる瞬間を、もう一度やりたかったです」

佐野木が最も印象に残っているという95年のダンロップフェニックス。最終日の18番でイーグルを決め、逆転優勝を飾った
亡くなる直前、痩せ細った体で冗談めかして「ダイエットに成功した」と笑い、初めて佐野木と握手を交わしたジャンボ。
「もうボロボロ涙が出て。頑張れって言うのも違うと思いましたし。背を向けてね“じゃあねー”って」。そう言って、静かに別れたのが最後だった。
「ジャンボ、You are the man! ですよ。私が行くまで、セルフカートでプレーして待っててください。さっさと上がって来いと言わんでね。もうちょっと土産話を作ってから行きますから」
尾崎健夫・直道、兄弟が明かす「故郷・宍喰への想い」
式典後、弟の尾崎健夫と直道は、家族にしか見せなかった最後の様子、そしてジャンボのアイデンティティについて語った。

故郷への想いは人一倍強かった。それを最晩年に改めて感じたという尾崎健夫(右)と直道兄弟
尾崎直道は、兄の最期の表情を「まるでお釈迦様のようだった」と言う。
「自分の思うがまま、あるがままの人生を戦い続けた。最後は本当に静かな感じで、生きながら仏になっていったような、そんな風に僕には見えました」
一方、尾崎健夫は、亡くなる1週間ほど前に交わした、これまでにないほど饒舌な兄を振り返った。
「将司から本名の正司にしたと。“兄やん、じゃあいつ将司にしたの?”って聞いたら、“俺はゴルフの時は将司、今は子供の時の『正司』に戻ったんだ”って。それでお墓を四国の宍喰に建てると。東京に出てきて、派手にやってきたように見えたかもしれないけれど、心の底は徳島の田舎の人間であり続けた男だったんだなと思います」

互いに切磋琢磨し、最強の三兄弟に
その根底には、父による厳しい教育があった。軍隊帰りの父から受けた「侍のような教育」。最後までその精神を貫き通した人生だった。
「三つ子の魂百までと言うけれど、高校までの宍喰での生活が最後まで彼を支えていた。頑張りすぎた人生だったと思うけれど、ジャンボ尾崎の後継者がどんどん出てくるように祈っています」
中嶋常幸「大きく、かつ前進し続ける壁。それがジャンボ」
AONの一角として、共に時代を築いた中嶋常幸。中嶋にとって、ジャンボ尾崎は常に「追い越すべき巨大な壁」であり、最大のインスピレーションの源だった。

ジャンボと幾多の激戦を演じた中嶋常幸
「僕にとっては、アマチュアの頃から憧れていた人。強さと明るさを兼ね備え、常に見せる場面を作ってくれる。日本ゴルフ界にパワーゴルフという革命を起こしてくれたのは、間違いなく彼だった」
中嶋が19歳の時、ジャンボからかけられた最初の言葉は「体を鍛えるんだぞ」だったという。その言葉が、アスリートとしての中嶋常幸を形作る原点となった。
1990年、小樽CCでの日本オープン。三連覇を狙うジャンボを逆転で破った。

歴代の日本オープンでも屈指の名勝負に挙げられる1990年の小樽決戦
相当悔しかったはずなのにそれを飲み込んで、握手をしながら「おめでとう、よくやった」と讃えてくれたという。
「あのスポーツマンの鑑のような姿は、今も忘れられない。常に勝とうと思って努力できたのは、ジャンボが大きな壁として立ちはだかってくれたから。その壁も止まっているんじゃなく、前に進んでいる壁だった。だからこそ、ぶつかっていくことが楽しみでもありました。私の記憶の中には、元気なジャンボしか残っていない。それは幸いなことだと思っています」
石川遼「悩むことの大切さを教えていただいた」
次世代のスターとして注目され続けてきた石川遼は、師匠としてのジャンボ尾崎から受け取った「無形の財産」について、実感を込めて語った。

ことあるごとにジャンボの薫陶を受けていた石川遼。ジャンボに対し深い憧憬を抱いていた池田勇太の姿も
「オフシーズン、ジャンボさんの練習場にお邪魔し、いろんなことを叩き込んでもらいました。打ち方についても、野球のピッチングフォームから落とし込むんです。技術だけでなく、圧倒的な知識量にも圧倒されました。当時から今の最新のスウィング理論に通じるものを語っていらした。ジャンボさんの書斎には、さまざま本がたくさん並んでいた。すごく努力して勉強されていたこと、今でも尊敬しています」
石川が学んだのは、単なる技術だけではない。一人のプロとして、いかに自分自身と向き合うかという姿勢だった。

2010年日本オープンでのひとコマ。ことあるごとにジャンボから上達のヒントを得ていた
「簡単に答えを教えるのではなく、やはり自分で悩むということの深みを教えていただいた。そんなジャンボさんの遺志を少しでも受け継いで、日本のゴルフ界がこれからもっと強く、明るくなっていくように頑張っていきたいと思います」
「男の生き様」を貫いた不屈の勝負師
ジャンボ尾崎というゴルファーは、最後まで「ジャンボ尾崎」を演じ、生き抜いた。
1000人の参列者は、誰もがジャンボ尾崎という巨大な太陽に照らされた記憶を持っていた。そして今の日本ゴルフ界の隆盛は、ジャンボ尾崎の存在なしにはあり得なかったことは誰もが疑わないだろう。
不屈の勝負師、ジャンボ尾崎。ダイナミックなスウィングとミラクルの数々、そしてあのいたずらっぽい笑顔は、私たちの記憶にいつまでも残り続けるだろう。

ジャンボの実使用のクラブも展示。チタンマッスルアイアンは、周辺に重量を配分して寛容性を高めつつ打感も損なわないという現代の主流の考え方を当時から採用。ジャンボ尾崎は“道具”の面においても卓越した才能を発揮した
※文中敬称略
PHOTO/Hiroaki Arihara、小社写真部
(2026年3月17日8時25分、加筆修正しました)

