1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材し、現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員として活動する吉川丈雄が、ラウンド中に話題になる「ゴルフの知識」を綴るコラム。通常、ゴルフ場は専門のコース設計者が手掛けるものだが、なかには土木工事などの専門ではない昆虫博士や建築家が設計したコースもある。そこで第61回目は、本職の設計家ではない「異分野の博士や建築家」が果たした多才な足跡と、ゴルフという競技が持つ奥深い魅力について紹介する。

丸毛信勝(1892~1977)

画像: 川奈ホテルゴルフコース・富士コース

川奈ホテルゴルフコース・富士コース

旧制臼杵中学を卒業し、東京帝国大学農学部に進学すると、昆虫の権威だった三宅恒方博士に学んだ。 昆虫の中でも蝶の研究で権威といわれるようになると、日本昆虫図鑑の制作を手掛け、29歳で農学博士になっている。ドイツに留学した後に教壇に立ち、釧路女子短期大学の学長を務めた経歴も持つ。

臼杵中学の後輩にあたる海軍中尉・吉良俊一から芝の害虫についての調査を依頼され、イギリスやアメリカなどのゴルフ場の芝を視察して回った。当時、日本では砂地には芝は根付かないとされていたが、視察したリンクスは海岸に接しており、芝付きも問題がなかったことから芝の研究を始め、砂地への技術を確立させた。

静岡県伊東市の川奈ホテルには大島コースと富士コースがある。富士コースはチャールズ・H・アリソン設計によるものだが、アメリカから図面だけが送られて来たもので、工事そのものは日本側で施工した。この富士コースの現場監督を務めたのが、昆虫博士の丸毛信勝だった。

シーサイドコースだったことから、芝の研究の権威として参加したのだろう。これを契機に、丸毛は戦後になると大富士GC、高松CC城山、新潟GC、武蔵野GC、帯広CC新嵐山、甲賀CCなどのコースを手掛けた。なかでも戦略性を凝縮した9ホールのコースは数多くあり、しかも高い評価を得ている。

間野貞吉(1903~1979)

西コースは井上誠一、東は間野貞吉が設計した戸塚CC

神戸で生まれ、岡山の第六高校から東京帝国大学工学部建築科に進み、関東大震災の復興のために設立された建築復興助成株式会社に勤務した。

大震災では火災が発生し多くの建物が焼失したことから、耐火建築物の設計を数多く手がけ、建築家としての地位を確立した。1936年に設計した日本基督教団芝教会(東京都港区虎ノ門。再開発に伴い数年前に建て替えられた)は、先の大戦でも焼失を免れた強固な建造物として残った。虎ノ門一帯が焼け野原になってしまったものの、地下鉄から地上に出ると教会だけが何事もなかったように建っており、まるで存在を誇示していたかのようだったと記録されている。

論文「ゴルフ場の施設」により工学博士となっている。学生時代はテニス、サッカー、ボートなどの選手として活躍し、ゴルフは相模CCの会員だった。戦前は建築復興助成会社から日立製作所を経て、戦後は大林組に勤務した。退職後は間野貞吉名義でコースを設計し、生涯で32コースを手掛けている。

岸田日出刀(1899~1966)

画像: 文化庁公式HPには、主要作品として武蔵野CC、湯河原CC、湯本八幡町GC、戸田CCのクラブハウス設計に携わったことが記されている

文化庁公式HPには、主要作品として武蔵野CC、湯河原CC、湯本八幡町GC、戸田CCのクラブハウス設計に携わったことが記されている

1922年に東京帝国大学工学部建築科に入学し、卒業後は東大に残り学生の指導に当たった。29年に工学博士になり、教授に就任している。東大の安田講堂は、内田祥三と岸田日出刀の共同設計だ。

神奈川県の湯河原にコース建設の話が赤星四郎にもたらされ、現地を検分してレイアウトを作成したが、コース設計はクラブハウスの設計を担った岸田に委ねられた。55年に18ホール・6251ヤード・パー71のコースが完成している。クラブハウスのレストラン部分は円形でモダンなデザインであった。後年クラブハウスは建て替えられたが、レストラン部分は保存され、現在も使われている。

文・写真/吉川丈雄(特別編集委員)
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースやゴルフの歴史のスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動中

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