歴史ある元寇の古戦場跡
下関から山陰本線を急行で35分、川棚温泉駅に着きます。各駅停車ならひとつ手前が黒井村駅です。下関ゴルフ倶楽部は、今は下関市に組み込まれてしまった豊浦町大字黒井にあります。そこは元寇の古戦場だった所です。
鎌倉時代前期、この土地の青山城は、黒井氏の居城でした。14番ホールわきに続く巨松並木は、城へ向かう御成り道だったといい伝えられています。
建治元年(1275年)、元の国使一行45名が、黒井の近く八ヶ浜に上陸。杜世忠ら5名が鎌倉に送られましたが、龍ノ口で斬首されてしまいました。残っていた40人も八ヶ浜で処刑されてしまいます。その遺跡は、海岸沿いの1,2番ホールの左側の林のラフに、元使首かけの松、元使四十塚として今も残っていますから、見学してみてはどうでしょうか。プレー中でもチョイ見することは可能です。
怒った元の国王・クビライは40万の兵、900艘の大軍で攻め寄せて来ました。弘安4年の役です。黒井氏は防塁を築いて迎え撃ったそうですが、防塁跡は、今も1番ホール左の林の中に残っています。元寇の防塁といえば博多が有名ですが、山陰の黒井でもよく戦ったようです。
戦後、昭和20年代前半、下関周辺にはゴルフ場がありませんでした。大洋漁業の中部利三郎は、海峡を渡って門司GCへ通っていました。子供の一次郎、幸次郎、銀次郎を伴うことも珍しくなく、門司では「子どもにゴルフをやらせるのか」と陰口をたたかれるのも再三でした。
出来たら下関でゴルフ場と考えているとき、昭和27年12月、石堂山麓に地元資本による3ホールの川棚温泉ゴルフ倶楽部が生まれました。さらに18ホールにしようと計画を立て、設計家の上田治に診断して貰うと、川棚の3ホールには目もくれず、その下に広がる八ヶ浜を指し、あそこが適地です、と推奨しました。
八ヶ浜は別名を「森の白浜」といわれ由緒ある松原、さらに昔は「無呂の港」といわれ阿倍仲麻呂など遣唐使がここから出発したという記録もあるそうです。だから八ヶ浜の買収には、道路に杭を打っての抵抗があったそうです。18ホールも造ったら松原がなくなると大反対。上田治も、最初の9ホールと残りの9ホールの間に間隔をおいて、柔和策をとったそうです。
昭和29年6月9日ようやく用地買収を終わり着工します。8月に芝張りを終わりますが、この段階で資金難となり、大洋漁業・中部利三郎が経営に乗り出します。中部は、同年10月に「温泉」を外して川棚ゴルフ倶楽部、翌30年3月にさらに下関ゴルフ倶楽部に改称するなど改革を進めます。
出来上がっていたコースも全面的に改造し、昭和31年7月、改造した9ホールによって正式開場します。前述のとおり、18ホールが揃うのは4年後、昭和35年10月30日まで遅れます。
下関GCの名は、日本アマ優勝、中部一次郎(1回)銀次郎(6回)の中部兄弟によってたちまち全国に知れ渡ります。クラブハウス前には、中部利三郎のブロンズ像がありますが、地元では「中部3兄弟のゴルフ場」と考えられていました。
2007年ゴルフダイジェスト社刊
田野辺薫「一度は回りたいニッポンの名コース」より
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