日本のプロゴルフ界に偉大な功績を残し、多くの人々に感動を与えた選手を称える「日本プロゴルフ殿堂」。アジア最大のゴルフの祭典「ジャパンゴルフフェア」初日、殿堂入りしたの涂阿玉ら6人の顕彰(けんしょう)式が行われた。その様子をレポートしよう。

「レジェンド部門」と「プレーヤー部門」で6人が選出

2017年は、陳清水(ちん・せいすい)、河野高明(こうの・たかあき)、清元登子(きよもと・たかこ)、島田幸作(しまだ・こうさく)、村上隆(むらかみ・たかし)、涂阿玉(と・あぎょく)の6人が殿堂入りをした。

陳、河野、清元は、1972年以前(ツアー制度施行前)に活躍した「レジェンド部門」、島田、村上、涂は1973年以降に活躍した「プレーヤー部門」で選出された。殿堂入りの顕彰者は、2012年の第1回から合わせて27人となる。

「レジェンド部門」は、陳、河野、清元の3人

画像: 神奈川県の程ヶ谷CCで修業するために来日し、浅見緑蔵の下で7カ月ほど学んだ陳清水。日本プロ2勝、日本オープン1勝、関東プロ3勝

神奈川県の程ヶ谷CCで修業するために来日し、浅見緑蔵の下で7カ月ほど学んだ陳清水。日本プロ2勝、日本オープン1勝、関東プロ3勝

台湾出身の陳清水は、台湾のプロゴルファーの草分けとして活躍。1937年「日本オープン」優勝、「日本プロ」は2度制覇するなどの実績を残したほか、陳清波ら、来日した台湾出身の後進の育成にも尽力した。1994年に死去。

画像: 河野は「ワールドカップ」の日本代表に68年から5年連続で選出された。69年に団体2位、72年は団体、個人ともに2位の好成績を収めた

河野は「ワールドカップ」の日本代表に68年から5年連続で選出された。69年に団体2位、72年は団体、個人ともに2位の好成績を収めた

河野高明は、67年「関東オープン」と「日本シリーズ」、68年に「日本オープン」と「日本シリーズ」を制した。69年に初出場した「マスターズ」では当時のアジア最高位となる13位になるなど、海外での活躍も目覚ましかった。

同時代に活躍した杉本英世、安田春雄とともに「和製ビック3」と称され、プロゴルフの人気を高めることに大きく貢献した。2010年に死去。

画像: 清元が73年「トヨトミレディス」で優勝した時の写真

清元が73年「トヨトミレディス」で優勝した時の写真

清元登子は、73年「トヨトミレディス」で女子ツアー史上初となるアマチュア優勝を成し遂げた。国内8勝(うち1勝はアマ)。83年に第一線から退いたのち、日本女子プロゴルフ協会の理事長、会長を歴任。ティーチング資格制度の基盤を立ち上げた。また、指導者として、不動裕理、大山志保、古閑美保を賞金女王に導いた。

「プレーヤー部門」は、島田、村上、涂

画像: 島田は同期の青木功としのぎを削り国内12勝を挙げた

島田は同期の青木功としのぎを削り国内12勝を挙げた

島田幸作は、68年「日本プロ」で同期の青木功との優勝争いを制し、初優勝を飾る。76年には「日本オープン」で優勝。当時のグランドスラムを達成。99年に設立された日本ゴルフツアー機構の初代会長。2008年に死去。

画像: 村上は、77年の「ハワイアンオープン」で米ツアーの当時日本選手最高成績となる2位に食い込んだ

村上は、77年の「ハワイアンオープン」で米ツアーの当時日本選手最高成績となる2位に食い込んだ

村上隆は、75年「日本マッチプレー」で初優勝を挙げ、同年9月「日本オープン」、10月「日本プロ」、11月「日本シリーズ」を制して、同一年日本タイトル4冠を成し遂げる快進撃。初の賞金王となった。77年の「ハワイアンオープン」では、米国ツアーの当時日本選手最高成績となる2位になるなど、海外でも活躍した。

画像: 涂は、国内勝利数「69」の偉業を成し遂げる。樋口久子と並ぶ最多記録タイ

涂は、国内勝利数「69」の偉業を成し遂げる。樋口久子と並ぶ最多記録タイ

台湾出身の涂阿玉は、74年の「東海クラシック」で初勝利。歴代2位となる計7回の賞金女王に輝き、中でも82年~86年は5年連続の戴冠で無類の強さを発揮した。入会前を含めた日本国内の勝利数「69」は、樋口久子と並ぶ最多記録タイ。現在、男女を通じて外国人選手唯一の永久シード保持者である。

画像: 涂は、涙を流しながら周囲に感謝の気持ちを述べた(写真左は涂、右は日本プロゴルフ殿堂 小林浩美副理事長)

涂は、涙を流しながら周囲に感謝の気持ちを述べた(写真左は涂、右は日本プロゴルフ殿堂 小林浩美副理事長)

涂は「この栄誉は、私一人だけではなく今まで支えてくださった周りの方々のおかげでいただけたんだと思います。長いゴルフ人生は私のいい思い出です。今後は、若手ゴルファーの育成に尽力していきたい。出来るかわかないけれど、もしかしたらシニアツアーにも挑戦するかもしれない」と謝辞を述べた。

This article is a sponsored article by
''.