2017年5月26日、宮里藍が引退を表明した。29日に都内で引退表明会見を催すことを発表したもので、2003年のプロ転向から14年あまりの現役生活にピリオドが打たれることになる。ゴルフ界は早くも“大激震”が走っているが、29日の会見を前に、ひとまず「沖縄発ゴルフ世界流」、世界ランク1位にまでなった宮里藍のプロ生活を、駆け足で振り返ってみよう。

2003年、アマチュアながらプロの試合で優勝

宮里藍は1985年6月19日、沖縄・東村生まれ。ゴルフインストラクターの父・優さんと母・豊子さんの間に生まれ、上の兄二人、優作と聖志もプロゴルファーだ。

画像: 若き日の宮里三兄弟。左から長男・聖志、藍、父・優さん、次男・優作。撮影は2001年

若き日の宮里三兄弟。左から長男・聖志、藍、父・優さん、次男・優作。撮影は2001年

宮里藍の名をゴルフ界のみならず、一般にまで知らしめたのが、2003年の「ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープン」。この試合でアマチュア優勝を果たしたことが大きかった。

画像: 03年の宮城テレビ杯でアマチュア優勝の快挙を遂げた

03年の宮城テレビ杯でアマチュア優勝の快挙を遂げた

その後の藍は翌2004年の1年間に5勝を挙げるなど大活躍で、ゴルフ界に「藍ちゃん」旋風を巻き起こし、一躍トップスターの仲間入りを果たす。“藍ちゃんに憧れてゴルフを始めた”というジュニアプレーヤー、あるいはプロゴルファーも多くいるほど。

画像: 2005年、日本女子オープンで優勝。記録ずくめの勝利で、藍ちゃん旋風が列島を覆った

2005年、日本女子オープンで優勝。記録ずくめの勝利で、藍ちゃん旋風が列島を覆った

身長155センチの沖縄出身の日本人女子ゴルファーが、世界の頂点に立った

藍の躍進はとどまることがなく、2005年には日本女子オープンで優勝。日本女子オープン史上最年少優勝、史上最速10勝、史上最速賞金2億円突破と記録づくめの優勝で、最終日には2万1018人という、これまた史上最多のギャラリーが“藍見たさ”に集結。4日間計4万8677人というとてつもないギャラリー数に、“藍ちゃん旋風”の凄まじさを誰もが実感することとなった。

画像: 父・優さん(写真左)と二人三脚でスウィングを作り上げた(写真は2005年の全米女子オープン初出場時)

父・優さん(写真左)と二人三脚でスウィングを作り上げた(写真は2005年の全米女子オープン初出場時)

その後米女子(LPGA)ツアーに参戦し、参戦4年目の2009年、エビアンマスターズでLPGA初優勝を遂げ、歓喜の涙を流した。その年の賞金ランキングでは3位タイに食い込み、翌2010年には世界ランク1位にまで上り詰めた。

2011年には再び「エビアンマスターズ」を制し、2012年にも年間2勝。だが、2013年以降は優勝から遠ざかり、14年には賞金ランク86位でシード権を逃し、15年もトップ10入りなしと苦しいシーズンに。16年は賞金ランク67位でシーズンを終えていた。

近年は苦戦が目立ったが、今日の日本女子ツアーの隆盛の礎を築いたのは、間違いなく宮里藍だ。

画像: 米女子ツアーでも長く活躍。多くの女子プロがその後に続いた

米女子ツアーでも長く活躍。多くの女子プロがその後に続いた

そして、2017年の現役引退発表。29日の記者会見で、藍は一体なにを語るのか。その模様は、「みんなのゴルフダイジェスト」でも速報する予定だ。

This article is a sponsored article by
''.