不動、大山、古閑、3人の賞金女王を育てた
とっつきにくい人だった。笑ったことがあるのかしら? と思うような強面(失礼)で、清元さんがその場にいるだけで背筋がピンと伸びる気がした。
しかしひとたび打ち解けるとやさしい人だった。「私はネクラの反対のネアカなの」が口癖でよく笑い、取材で熊本まで行くと伝えると「何人も来るんでしょう? もったいないじゃない。私はシニア割引(航空券)で行けるから羽田(空港)で会いましょう」と本当に取材だけのためにやってきてくれた。
2時間弱の取材を終えるとトンボ帰りで熊本に戻る。こんな取材相手はあとにも先にも清元さんだけだ。しかも「お子さんにあげて」と手土産まで。気遣いの人だった。
男性に混じってゴルフをはじめ、まだ性別の規定がなかった九州アマに出場し周囲を驚かせたこともある。「だって(規約に)書いてなかったんですもん(笑)」とご本人はいうが、男子しか出ていない試合に出場する勇気のある女性など彼女以外いないだろう。その翌年には男性に限ると明記されたというから清元さんが歴史を変えた!?
宮里藍が14年前、高校生でミヤギテレビ杯を制し「アマチュアがプロの試合に勝ったのは30年ぶり」と盛んに報道された。30年前に史上初のアマ優勝を達成したのが清元さん(73年トヨトミレディス)だった。
プロ入りは35歳と遅かったがメジャーを含む8勝を挙げた。それ以前は最強の女子アマとして名を馳せたが「アマチュア10年、プロ10年。それできっぱりクラブを置きました」と40代半ばで現役を退いてからは後進の指導に力を尽くした。
賞金女王に6度輝いた不動裕理には自宅の「一番日当たりの良い部屋」に住まわせ、栄養面を考慮した食事を手作りし、まさに寝食をともにして二人三脚で歩んできた。
弟子が賞金女王になれば、関係者に配るお礼の品も清元さんが自ら吟味した。不動だけでなく大山志保、古閑美保も賞金女王に押し上げたのは清元さんの手腕に他ならない。自らの経験を踏まえ会長、副会長を歴任した日本女子プロ協会ではティーチング部門の立ち上げにも大きく貢献した。
2009年に脳梗塞で倒れてからは表舞台に立つことはなくリハビリ生活を続けられたという。最期は故郷・熊本ではなく神奈川県横浜市内の老人介護施設で息を引き取った。それが今月の16日。そして27日、第50回を迎えた日本女子オープンで協会が訃報を発表。歴代チャンピオン(78年)のひとりとして清元さんは、空の上で後輩たちの戦いを見守っているに違いない。「そんなんじゃダメよ!」と清元節で厳しいダメ出しをしているのかもしれない。
正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると指摘し自らの考えを決して曲げなかった、やさしくも厳しい昭和の肝っ玉母さん。弟子たちにとっては紛れもないゴルフ界の母だった。
凛としたお姿を見られなくなると思うと淋しさだけがこみ上げてくる。長い間お疲れさまでした。ゆっくりお休みください。心よりご冥福をお祈りします。
一部訂正致しました(2017年9月28日12時30分)