トラブルはやんわりやり過ごさないと
中部さんがこよなく愛した居酒屋が新橋にあります(編注:現在は惜しまれながら閉店)。長年話には聞いていましたが、私がその店、「独楽」の客になれたのはほんの数年前です。いま夜ごと常連客たちが「銀ちゃん」「銀ちゃん」と親しく呼んで懐かしむ中、私は「中部さん」としか呼ぶことができない新参者です。
カウンター席に中部さんと居合わせたことが数回ありました。そのうち二回、一言ずつ会話しています。思えばそれはいかにも中部さんらしい気配りの一言でした。一度は気の置けない編集者たちが冗談まじりのゴルフ談義に盛り上がっている時でした。中部さんが私たちのほうに目を配り、「すみませんね、おやかましくって」と頭を下げました。一緒に笑って楽しんでいるのですから、なにもすまないことはないのですが、中部さんはそう言いました。
もう一度は、連れの人たちが先に帰って、お一人でもう一杯を楽しんでいる時でした。『わかったと思うな 中部銀次郎ラストメッセージ』、まさしく最後の本が出た数日後でした。本にサインをお強請(ねだ)りしたところ「すいません、今夜はちょっと飲み過ぎています。お預かりしていって書いてまいります」と言われました。翌週店に行くと、私の名前とご自分のサインをペンで一字画ごとにきっちりと認(したた)められた本が届いていました。
中部さんのゴルフは説得力に富むごもっともゴルフではないでしょうか。名言が多い。言うこと、そして実際を知る人がことごとく書いているように、なすことがいちいち理にかなっています。
だから隙がない。ま、人間ですからないわけはありません。少し前に、その隙を突っついた、まったく的外れの中部評が文字になったことがありました。明らかな間違いなのですが、だからこそ中部さんの名誉を思えば余計に腹立たしく、親しかった居酒屋の常連たちは酒が苦くなりました。
居酒屋のカウンターで、ある人は降って湧いた不愉快をどうしたものかとつぶやき、ある人は間違いを正すためにこうしてみようかと言い、おっちょこちょいの私までもが口を挟んだり。ある人がふとカウンターの中に立つご主人を見上げ、「どうしたもんだろうね」の視線を送ったときでした。ご主人がゆっくり口を開きました。「中部さんの言った言葉でね、『ゴルフは、起こったことに対して鋭敏に反応しちゃいけない。やんわりと遺り過ごさないといけない』っていう言葉があるのね、これがあたし一番好きなの」
これは『新ゴルフの心』にも紹介されている銀の名言の一つです。トラブルショットの処し方なのですが、諸事万端に通じる処世術でもあります。『最初からの問題もそういうことなんじゃあないですかねぇ』
店のカウンターはL字型、おっといけない、ここは鉤の字になっていると書かないと江戸っ子のご主人に「無粋」と睨まれます。調理台を横から覗ける側が私は好きでよく掛けさせてもらいます。ある晩そこから、見ていて分かりました。店でいちばん長い時間、中部さんを正面から見て言葉を聞いていたのは、この人だったわけです。
「ゴルファーのスピリット」(ゴルフダイジェスト新書)より