松山がアジアパシフィックアマに優勝したのは大会発足2年目の2010年、舞台は霞が関CCだった。
「アジアからゴルフ界のヒーローを」をコンセプトに誕生した大会を立ち上げたのはマスターズが行われるオーガスタナショナルGCの前会長ビリー・ペイン氏や全英オープンを主催するR&Aの長ピーター・ドーソン氏らだった。
ペイン前会長(2006年から2017年まで会長職を務める)はアジアから世界のトップが出ていないことを危惧し、アマチュアにマスターズ出場の機会を与えることが若者のモチベーションに繋がると考え2009年に第一回大会を開催。松山が翌年の優勝者となり2011年のマスターズ出場の機会を得た。
右も左もわからない異国の地。しかも大会直前、日本は未曾有の震災に見舞われていた。果たして自分が出場して良いのか? 心は揺れた。しかし周囲からの後押しで出場を決意すると若武者は夢舞台で躍動した。
予選ラウンドを終えアマチュアでただひとり決勝に進出すると3日目には「68」の好スコアで雲の上の人スティーブ・ストリッカーに「ナイスプレー」と褒められた。
最終日最終18番でフェアウェイからグリーンに向かって歩を進めた松山はパトロンの盛大な拍手と歓声に包まれた。ゾクゾクと込みあげる戦慄が全身を貫いた。
「あのシーンはいまでも忘れられない」
27位タイの立派な成績でグリーンジャケットセレモニーに出席し西陽に照らされながらローアマの証シルバートロフィを授与された。
あれから10年。松山はグリーンジャケットに袖を通した。その勇姿を誰よりも感慨深げに見つめたのがペイン前会長だ。「アジアにヒーローを」を旗印に彼が蒔いたアジアパシフィックアマという一粒の種が結実した瞬間。
表彰式を終えオーガスタナショナルのメンバーらがチャンピオンを迎える恒例のカクテルタイムにグリーンジャケット姿で登場した松山を見てペイン前会長は涙を隠せなかった。
「ヒデキは一番の成功例」。松山は日本のゴルフファンだけでなく、ペイン前会長の願いも叶えたのだ。