アリソンバンカーで有名な、日本のコース設計の基礎を作ったとされるチャールズ・H・アリソン。来日して2カ月半~3カ月の間にのちに名コースとなるゴルフ場で多くの仕事にかかったと言われるが、もっと長く日本に滞在していたことが最近わかった。アリソンのコース設計家としての変遷を、全3回に渡って解説。本記事では前編の内容をお届けする。

日本のコース設計の原点を作ったのは英国人のコース設計家・チャールズ・アリソンだ。アリソンの来日は従来1930年12月とされ、滞在期間は2カ月、もしくは3カ月とされてきた。だが、その後の調べにより来日したのは1930年11月25日で、カナダのバンクーバークーからエンプレス・オブ・アジア号で横浜に到着している。帰国は、4月9日に神戸から日本郵船の筥崎丸(はこざきまる)に乗りシンガポール経由でロンドンに戻っている。当時の欧州航路は、日本からロンドンまでじつに45日もかかっていた。

つまり、アリソンの滞在は4カ月と13日にもおよび、その期間に東京GC朝霞、廣野GC、川奈ホテル富士Cを設計し、霞が関CC、藤澤GC、鳴尾GC、茨木GCの改造設計を行った。

画像: 来日後、東京では帝国ホテルに宿泊、10日間こもりコース設計図を描いていた

来日後、東京では帝国ホテルに宿泊、10日間こもりコース設計図を描いていた

アリソンは、1882年3月5日に英国ランカシャー州プレストンに生まれ、ゴルフは5歳から始め、オックスフォード大学では造園を学んでいる。ケンブリッジ大学のゴルフソサエティに属し、全英アマチュア選手権、英米アマチュア選手権の代表選手でもあり、1903年の米国遠征では6戦6勝という強さだった。

1907年ロイヤル・ダブリンCドーリーマウントで行われたドライビング競技では340ヤードを記録している。当時の道具から考えると、相当な飛ばし屋だったことが伺える。また、クリケット選手としても優秀だったようだ。

1906年にハリー・コルト、アリスター・マッケンジーが設立したコース設計事務所のパートナーになり14年に正式に共同経営者となった。アリソンはおもに英国以外の地域を担当し、1928年米国のデトロイトに事務所を開設して9年間滞在していた。

駒澤にあった東京GCが、地主との借地問題に悩まされたことにより、新天地を求めて移転しようとする機運が高まり、会員の白石太士良が探し出したのが埼玉県北足立郡膝折村の21万5000坪の雑木林だった。その土地はあまりにも平坦で変化に乏しく、会員から異論が出たが近くに舗装の川越街道が建設中だったことから利便性を考え約100万円で取得することになった。

面白いエピソードが残されているので紹介しよう。日本のゴルフ草創期に活躍した大谷光明が「膝折では縁起が良くない」と言い出し、俱楽部の総裁だった朝香宮鳩彦(あさかのにみややすひこ)の許可を得て朝霞とし、膝折村も賛同して1932年5月1日正式に膝折村から朝霞村に改名されている。

画像: 当時の朝霞コースの造成風景

当時の朝霞コースの造成風景

大谷光明は「英国、もしくは米国からコース設計家を招き本格的なコースを造ろう」と提案し、当時活躍していた英国のハリー・コルトに依頼することに決定。

会員の岩永裕吉が仕事で欧州に行くことが分かり、そのついでにコルトとの交渉を依頼。岩永は、英国の政治家で1902年首相を務め面識のあったアーサー・バルフォアに話を持ち込んだ。

当時コルトは68歳と高齢で「日本まで行くのは難しい」とされ、代わりに共同経営者で米国に滞在しているチャールズ・アリソンを紹介。アリソンとの契約は三菱銀行ロンドン支店長の金野満、英国滞在中の会員井上匡四郎が行った。アリソンの報酬は1500ポンドで、米国人のシェーパー、ジョージ・ペングレースは月400ドル。

東京での滞在は帝国ホテルだった。到着して数日後、建設予定地の膝折村に赴き、等高線の入った縮尺1200分の1の地図と現地の地形を照らし合わせながら検分。10日間帝国ホテルにこもりコース設計図を完成させた。図面ができると、現地に向かい、ホール形状を確認しながら樹木を伐採し各ホールの中心線を定めていった。この作業には2週間強の時間を費やしたようだ。

完成された図面は簡素だったことにより、大谷光明以下、会員はかなり不安だったようだ。ところが、シェーパーのペングレースは、1枚の平面図から土を盛ってマウンドを造り、掘って池(3番ホール)にして平坦な地形を立体化していった。その作業を観察していた会員たちはいたく感銘したという。

画像: 朝霞コース設計のために用意された等高線入りの地図(1/1200)

朝霞コース設計のために用意された等高線入りの地図(1/1200)

当時の日本人たちにはシェーパーの存在すら知らなく、職業としてコース設計をしている人物もいないことから、まるで魔法を見ているようだったに違いない。起伏のために土砂6万立方メートル、芝のための砂を1.5万立方メートル使い、作業には述べ6万人がかかわった。

完成されたコースは、バンカー数112、そのうち50カ所がグリーン周辺だった。また、予定地の土壌、植生、水道(みずみち)、気候、灌漑などを考慮してコース設計がされたことにも驚いた。それまでは、欧米でゴルフを覚えたゴルファーが、見よう見真似でコースを設計し素人の領域を出ないものだったからだ。コースには洋芝が使われ、そのために3万人の町を潤すほどの設備が造られた。

※中編は2021年11月28日11時30分公開予定です

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