日本のゴルフコース設計の近代化をもたらし大きな影響を与えたチャールズ・アリソンは、川奈で静養中の井上誠一青年に「ゴルフコース設計」の面白さを覚醒させ、その後井上はコース設計家としての道を歩み始めた。
井上が手掛けたコースはいずれも高い評価を得ており、一般的にいえば「名門」とされるコースが多い。井上の描くホールはいずれも優美な曲線を用いていたことから女性に例えられた。コース設計の際、ホールに明確な戦略性を持たせると同時に優しさを織り込んだのは、コース設計家として井上の美意識が込められているといえる。
1931年初頭、アリソンが関西に赴き廣野GCを設計した。建設予定地を検分した後、神戸オリエンタルホテルに2週間籠り設計図を完成させている。廣野GCの高畑誠一や伊藤長蔵は、その図面をもとに造成を直ちに行っている。コースの造成監督は伊藤長蔵だった。
伊藤は、日本のゴルフ草創期に活躍した大谷光明の弟大谷尊由と英国に渡りゴルフに親しみ、さまざまなゴルフ図書を読み漁ると、役に立つ部分を抜粋してアルファベット順に編纂し「ゴルファーズトレジャー」をロンドンで出版。この本は日本人が書き記した最初のゴルフ本だった。その後の1921年(大正10年)日本最初のゴルフ雑誌「ゴルフドム」を発行している。
アリソンが来日した時に、京都大から誰かを出そうとなり、上田治が廣野GCの造成を手伝うことになった。理由は上田が林業や造園を学んでいたからである。昭和6年から7年6月の開場まで廣野GCの建設に従事した。
上田は、大阪府茨木の生まれ。旧制茨木中学時代1920年(大正9年)に背泳競技に出場して大会新記録で優勝している。1922年(大正11年)、23年(大正12年)には100メートル背泳ぎで日本新記録を樹立。第7、8回極東選手権でも優勝を果たしている。1934年(昭和11年)ベルリンオリンピックでは水泳競技の審判としてドイツに遠征。競技終了後に、日本ゴルフ協会からグリーンの研究を依頼され、スコットランドを皮切りに9カ月に渡り英国や米国のコースを視察して最新のゴルフを学び帰国している。廣野GCのグリーンキーパーを経て、1940年(昭和15年)~54年(昭和29年)まで支配人として勤めた。在職中の1934年(昭和9年)に門司GCを設計している。
「私の頭にあるものは常に自然のままの姿を損なわず、与えられた地形をいかに活かすかということです。造園学を学びましたが、あくまでも人工的なものは2次的に考えている。コースという平面的なものに立体的な美しさを持たせること、この点に最大の注意を払っている」そして「私の手法というか、考え方はアリソンの影響が大きい比重となって占められていると思います。後に11年から12年にかけて渡米してコースを見て回りましたが、私の基本となっているのは、アリソンから学んだことのように思われます」と語っている。
欧米視察後、最初に手掛けたのは大阪GC、通称「淡輪」と呼ばれるコースだった。コースは海岸に接した小高い丘の上に展開し、飛距離よりも正確性が求められるコース。また地形がそのまま活かされていて、打ち上げ、打ち下ろしはもとより、変化に富み球趣つきないルーティングで、評価はかなり高いものがある。米国視察中に、ペブルビーチGLやサイプレスポイントGCなど海岸に展開するコースを視察しているが、その時の情景が上田の脳裏に残っていたに違いない。
日本に近代的コース設計をもたらしたチャールズ・アリソンの影響を受けた井上誠一は関東に設計コースが多く、上田治は関西に多い。そのことから「東の井上、西の上田」といわれ、繊細な作風の井上と豪快といえる上田を評して「柔の井上、剛の上田」ともいわれる。
井上、上田が日本のゴルフコース設計に与えた影響は非常に大きく、その源流は1930年11月25日に東京GC朝霞コースの設計のために米国から来日したチャールズ・アリソンにたどり着く。
上田治は、コース設計家として生涯57コースを手掛けた。