今回LPGA殿堂入りの訳はこれまで条項のひとつだった勤続年数(ツアーでプレーした年数)10年が撤廃されたから。
殿堂入りに3つの条件がありひとつ目は優勝やプレーヤー・オブ・ザ・イヤーなどの各賞、メジャー勝利で付与されるポイントが27以上であること。2つ目がメジャー1勝以上、あるいは年間女王やベアトロフィー(最少スコア)の受賞者であること。そして3つ目が勤続10年。じつはこれ世界ゴルフ殿堂入りの要件(女子は主要ツアーで15勝以上、メジャー2勝以上)よりも厳しかった。
2010年、世界ランク1位から陥落した翌週28歳の若さで引退を表明したオチョアはデビュー8年で27勝を挙げ、殿堂入りポイントは37に達しメジャー2勝と2つの条件は満たしていたが10年の壁があったためLPGA殿堂入りは見送られていた。しかし殿堂委員会がこの度規約を改定。10年縛りが撤廃されたことでオチョアの殿堂入りが決まった。
朗報をメキシコ系アメリカ人で殿堂入りのナンシー・ロペスから電話で知らされたオチョアは「庭にいるとき彼女から電話がかかってきて家族のことや子供のことなど軽い世間話をしたあと(殿堂入り)知らされて興奮のあまり庭をぐるぐる歩き回ってしまいました。感動です。とても名誉なこと。家族もみんな喜んでいます」と喜びを口にした。
00年代半ばに宮里藍が米ツアーに本格参戦した頃、オチョアはアニカ・ソレンスタムの跡を引き継ぎナンバー1に浮上。引退するまでツアーを牽引する存在だった。
素顔はおちゃめでいたずら好き。「大学のとき(アリゾナ大学)からアメリカにいるのに英語がスラスラ出てこなくて固まっちゃうときがあるの」と苦笑いし周囲を笑顔にさせたことも。宮里とはお互いを「アッイ」(なぜか小さいッが入る)「ロレーナ」と呼び合う親友同士だった。
オチョアがプロデビューした02年、下部ツア−で3勝を挙げわずか5試合でLPGAツアー昇格を決めたのだが、03年の開幕まで半年近く競技に出場する場所がなくマネジメント会社の手配で日本にやってきて箱根CCで行われた日本女子オープンに出場した。すると無名の新人は3日目までトップを走り大器の片鱗を見せつける。しかし最終日前夜持病の喘息を発症し結果は3位タイ。
じつはそのとき新橋にある小社、ゴルフダイジェストを表敬訪問している。無酸素登頂でK2に登った経験のある兄も一緒だった。あの頃から世界一のゴルファーになると周囲からいわれていたが、5年後の07年4月実際にナンバー1の座に就き、以降丸3年間トップに君臨。しかし置かれる立場は変わってもデビュー当時とまったく変わらぬ人柄で取材してていていつもホッとさせられる存在だった。
28歳で引退したときは「旅から旅への生活を楽しめなくなってしまった。家族が待つ故郷が恋しくて、毎年同じことをしてきたのに何かが違うと感じ虚しさしかなくなった」と本音を吐露。当時から交際中だったメキシコ航空の重役レイズ氏と09年に結婚し今や3児の母。
幸せな家庭を築きながらビジネス面でも活躍する40歳のスーパーウーマン。LPGA殿堂入りは遅すぎた感があるが、彼女が笑顔ならそれでいい。