19歳のルーキー、川﨑春花が華々しいデビューを遂げている。9月のメジャーでツアー初優勝を飾り、1カ月の間に立て続けに2勝目を挙げた。2勝目直前、練習後の忙しい最中、川﨑春花にインタビュー。童顔な19歳が選んだ職業・女子プロゴルファーについての本音とは?

「64のベストスコア、楽しんでたら出てました」

──日本女子プロ優勝おめでとうございました。レギュラーツアー初勝利がメジャー。予選会からの優勝は史上初、地元(京都)メジャーの優勝も初と、初尽くしでした。

川﨑春花  ありがとうございます。自分でも驚いていますが、周囲のほうが驚いていたかもしれません。携帯を確認できたのは試合の日の18時過ぎだったんですけど、メッセージ、めっちゃ来ていました。今まで見たことのない数字が表示されていました(笑)。

画像: インタビュー中の川崎。いまどき19歳の穏やかな笑顔が際立っていた

インタビュー中の川崎。いまどき19歳の穏やかな笑顔が際立っていた

──日本女子プロでは最終日に64のビッグスコア。特に後半は6バーディノーボギーの「30」。いわゆる“ゾーン”に入っていたんでしょうか。

川﨑春花  それが全然そんな感じじゃなかったんです。周囲の歓声なんかもちゃんと聞こえていましたし。ただ、すごく集中はできていて、プレーしていてとにかく楽しかった。キャディは大阪学院大高ゴルフ部の後輩が務めてくれたんですけど、深いラフからの3打目をふわっと打ったら「今のうまかったですねー」とか言って。私も「ありがとー」なんて言ってなごんでました。それで気づいたら64のベストスコア。これまで高校時代に65は何度か出していたんですが、そこが超えられなかったんです。

──65の壁をメジャーという大舞台で突破したんですね。

川﨑春花  はい。よく言われることだとは思うんですけど……目の前の1打に集中して、楽しんでいたら出てました。

私も友だちも、夢と目標で犠牲にする部分があって…(川﨑春花)

──ゴルフを始めた年齢ときっかけは?

川﨑春花  お父さんと姉の影響です。二人がやっていたので私も7歳から始めました。最初は正直、楽しくなかったです。だって、球を打つだけじゃないですか(笑)。それで飽きちゃって。ラウンドもしていたんですけど、確か小2で出た体験試合みたいなやつで最下位になって、もらった成績表の順位を自分で「1位」って直したことがあります(笑)。でも、その成績表は捨てなかったですね。なぜか、そのことはすごく記憶に残っています。

──小学校、中学校と地元・京都の立命館ですよね?

川﨑春花  はい、高校からゴルフ部のある大阪学院大高校に進みました。

──プロになることを意識した選択だったんですね。

川﨑 春花 大きな決断でした。事前に大阪学院高の見学に行ったんですけど、ゴルフ部の雰囲気がすごく良かったのも決め手でした。先輩方も優しくて。よし、ゴルフ1本でいこうと思えたんです。

──同級生はほとんど立命館高校に進みますよね?

川﨑春花 そうなんです。でも、そんななか、仲のいい子で一人「宝塚音楽学校に進みたい」という子がいて。でも、そのためには犠牲にする部分もあるんです。たとえば、私も彼女も中学校の修学旅行には行けなかったんです。

私はアメリカでゴルフの大会があって、彼女も同じように大事なレッスンがあって。でも二人とも夢というか目標があったから頑張れた。同じような考えの友達がいるというのは支えになりました。彼女も宝塚音楽学校に合格して、今は月組の舞台に立っているんですよ。その舞台も見に行きましたし、ご飯にも行きますしメッセージを送り合ったり、全然ジャンルは違うんですけど彼女の活躍が刺激になっています。

──もちろん、ゴルフ関係の仲間も多いですよね。プロテスト同期合格組は仲がいいとか。

川﨑春花  はい、あのキツーいプロテストを一緒にくぐり抜けた“同志”なんで。もちろん、ライバルではあるんですけど、同志だから。活躍を見ているとうれしいし「よし、私も」ってなります。プロテスト、ほんとにほんとに大変なんです。もちろん、二度と受けたくないです。人生で一番緊張したと思います。

でも、尾関彩美悠ちゃんも佐藤心結ちゃんも櫻井心那ちゃんも小林夢果ちゃんも……みーんなそうだったと思うんです。だから、同志。私、仲間や家族や……周囲にとにかく恵まれているな、って思うんです。先生もそう。日本女子プロの最終日には、大阪学院大高のゴルフ部の顧問の先生や立命館中学校のときの先生も来てくれていたんです。私には言わず、二人ともこっそり見守ってくれていたんです。立命館の先生は取材が終わるまで待っていてくれて一緒に涙を流してくれました。

お父さんはコーチというより…時々ケンカする人(笑)(川﨑春花)

──日本女子プロは地元での試合でしたしね。

川﨑春花  それが大きなモチベーションでした。予選会でも、絶対ここ(城陽CC)の試合に出る、って。だって、プロテストの舞台もここだったんですよ。予選会は気合で通ったと思っています。先生が来てくれているとは知りませんでしたが、地元の人や、もちろん、お父さんもお母さんもいましたし。頑張りたいじゃないですか。

実はお母さんは、私が大阪学院大高に進むと決めたとき、すごく心配していたみたいなんです。でも、心配している様子は私には全然見せなかったんです。後になって別の人からそれを聞いて……。ほんと、プロゴルファーになって良かったと思いました。

──そうそう、日本女子プロの賞金でご両親とお姉さんに何かプレゼントするとおっしゃってましたね。

川﨑春花  あ、それが実はまだで……。なんか“プレゼントするする詐欺”みたいになっているんですけど、オフには(笑)!

──その折には何を贈ったか教えてください(笑)。ちなみに、お父さんはコーチ?

川﨑春花  いえ、コーチというわけではないんです。お父さんは気づいたことを言ってくれる人。いえ、めっちゃ言ってくれる人、です(笑)。それでちょくちょくケンカになってます。話をスルーしたら「無視した」って言われたり、言い返したらまた言い返されたり。そんなのしょっちゅうです(笑)。

──見ているぶんにはちょっと面白いです。

川﨑春花  やっているほうはけっこう大変です(笑)。

小2のときの最下位の成績表、今も捨てていません(川﨑春花)

──今後、こういう選手になりたいとか、こういう選手に憧れる、とかはありますか?

川﨑春花  素敵な先輩、多いんです。たとえば、スタンレーで一緒に回った吉田弓美子さん。めっちゃ面白い方。インスタの書き出しが絶対「こんばんは。吉田弓美子です。本人です」って、もう。そこから面白いでしょ(笑)。ほかにも上田桃子さんや有村智恵さんとも一緒に回る機会があったんですけど。「人格者だ」って。吉田さんもですけど、優しくて面白いんです。

上田さんは楽しくお話してくれて、でもプレーに入るとサッと切り替えてて……すごい、これがメリハリかと。有村さんは、私、ドタバタしてしまったホールがあったんですけど、次のホールに入って「ああいうのは仕方ないよ。ゆっくりして大丈夫だよ」と言ってくれて。ちょっと泣きそうになりました。それで、ああ、こういう先輩たちみたいになりたいって。今は自分がいちばん下ですけど、そのうち先輩になったとき、こんなふうに後輩に接することができたら、と思ってます。

あと、上田さんは実はファッションにも注目していて。以前、LPGAアワードで着ていたピンクのドレス! ああいうの、ほんとうにかわいくって憧れるんですけど、なかなか真似できへん。上田さんは自分に似合うものを知っているというか。センスですよね、センスってどうやったら身につくんやろ(笑)。

──家族や仲間、先輩、後輩の話になるともう話が止まらなくなりますね。

川﨑春花 今の私を作ってくれたのは、それやから。ゴルフを始めるきっかけを作ってくれたのは家族で、技術や礼儀はゴルフ部の先輩や先生から。夢を諦めないこととか、努力すること、自信を持つこと……これは宝塚の友だちやプロテスト同期の仲間から。人に優しくはゴルフ界の先輩から。ああ、やっぱり、私は恵まれていると思います。

──では、最後に“川﨑春花のゴルフ”とは。

川﨑春花  攻めるゴルフ、です。春先も、優勝した日本女子プロの直前も予選落ちが続いていたんです。辛いけど、そんなときこそと自分の状況と向き合った。すると、自分がいかに逃げるゴルフをしようとしていたかがわかったんです。そりゃあ、スコアカードを破り捨てたくなることもありますけれど(笑)、向き合う作業は必要です。

思えば、小2のときの最下位の成績表も捨てていませんからね。「1位 川﨑春花」と直した成績表、家のどこかにあると思います。お父さんならどこにあるか知っているかもしれません(笑)

※2022年週刊ゴルフダイジェスト11月8日号「川﨑春花インタビュー」より(PH/Shinji Osawa、Hiroyuki Okazawa、Masaaki Nishimoto)

川﨑春花(かわさき・はるか/2003年5月1日、京都市生まれ。名前を付けたのは父方の祖父。「私が生まれたとき、闘病中でもう随分良くない状態だったそうなんですけど『春の花で、春花なんてどうや』と提案してくれたそうです」。実はその時点で「日向子」でほぼ決まりかけていて、名入りグッズまでできている状態だったが変更。「すごく気に入っている名前です」

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