ちょうど20年前の2003年、女子ツアーに宮里藍が登場して、女子ゴルフ界が一変したが、登場したのは宮里だけではなかった。宮里が「永遠のライバル」と呼んだ同級生の横峯さくらだ。ほかにも多くのライバルたちが……。第2話は、ますます女子ゴルフ界が盛り上がっていく04年から07年時を紐解いていく。
画像: 女子ツアー人気を10年以上引っ張ったた宮里藍と横峯さくら(04年4月撮影/小林正昭)

女子ツアー人気を10年以上引っ張ったた宮里藍と横峯さくら(04年4月撮影/小林正昭)

宮里がミヤギテレビ杯でアマチュア優勝を飾った翌年の04年、横峯はアマチュアながら再春館レディースで当時最強とうたわれた不動裕理とプレーオフを戦い敗れたものの、8月のプロテストには期待通り一発合格。デビューから3試合連続でベスト10入りし、瞬く間にシード選手の仲間入りを果たした。

父・良郎さんが運転するキャンピングカーでツアーを転戦する独自のスタイル。父はキャディも務めたが「お前にはできるわけがない」と娘がカチンとくるような言葉でけなし、それに反発した横峯が次々と結果を出す。そんな横峯親子の‟親子喧嘩”はツアーの名物的存在になった。

05年にはハワイの男子ローカル大会、パール・オープンに参戦。男子顔負けの飛距離で17位に入り地元で大いに話題になった。その年国内ツアー2勝、翌06年には3勝を挙げ、押しも押されぬトッププロに。

画像: 女子プロがハワイの男子の試合(パール・オープン)に出場し、その意外性などで女子ゴルフ人気を高めた横峯さくら。飛距離も男勝りだった(撮影/姉崎正)

女子プロがハワイの男子の試合(パール・オープン)に出場し、その意外性などで女子ゴルフ人気を高めた横峯さくら。飛距離も男勝りだった(撮影/姉崎正)

優等生タイプの宮里と、おっとりでつかみどころのない横峯は好対照。記者会見でラウンドの内容を聞かれると「そのホールはドライバーでフェアウェイ左サイド。残り156ヤードを6番アイアンでグリーンの右に乗せました」とはきはき答える宮里に対し、横峯は「ドライバーを打って、真っすぐ飛んで…うーん、あとはちょっと……」と言葉に詰まる。いかに彼女が感覚派だったのかがわかるエピソードだ。

オフにはゴルフ以外のことがしたいとコンビニでアルバイトした経験もある横峯。「忙しかったら続けていたんですけど、暇だったので辞めました」といって笑わせた。

06年は宮里が渡米。国内でのプレーは限られたが、凱旋帰国してすぐに日本女子プロゴルフ選手権に優勝。アマチュア時代に優勝したミヤギテレビ杯でも勝利を挙げ、出場7試合すべてでベスト10入りと圧巻のプレーを見せつけ、ライバルたちを奮起させた。余談だが日本女子プロでは腹痛を訴え病院で点滴を受けながらの出場でタイトルを獲得している。

その年(06年)は藍とさくらの1歳下・諸見里しのぶがSANKYOレディースでツアー初優勝。同級生のライバル・上田桃子も優勝こそなかったが賞金ランク13位に躍進し世代交代が本格化した。

そして翌07年、上田が一気にブレイク。年間6勝を挙げ21歳にして史上最年少(当時)の賞金女王に輝いた。

画像: 07年、宮里の1歳下の上田桃子が史上最年少女王に輝いた。ミズノクラシック(現TOTOジャパン)で”アルバトロス優勝”を飾った(撮影/姉崎正)

07年、宮里の1歳下の上田桃子が史上最年少女王に輝いた。ミズノクラシック(現TOTOジャパン)で”アルバトロス優勝”を飾った(撮影/姉崎正)

今でも語り継がれているのが米ツアーの公式戦ミズノクラシック(現TOTOジャパンクラシック)でマークしたアルバトロス。最終日の7番パー5で残り235ヤードを3番ウッドで直接カップインさせ、ホール・イン・ワンより難しいといわれる奇跡のおまけ付きで“米ツアー”初優勝。

自動的に翌年の米ツアー出場権を獲得し、未来の扉を自らの手でこじ開けた。

また07年は開幕戦のダイキンオーキッドで辻村明須香がプレーオフに進出。優勝は米山みどりに譲ったが2位に入りモデル事務所所属の美人プロとして注目を集めた。

さらにプロ入り前の金田久美子がツアーで活躍するなどビジュアル系ゴルファーが急増。女子プロが強いだけでなく、自らを魅せる術を研究し、セルフプロデュースするようになったのも昨今の女子プロブームに繋がっている。(第3話へ続く)

This article is a sponsored article by
''.