“公式戦男”と異名をとった金井清一が昨年11月に泉下の客となっていた。82歳。

公開が遅れたのは喪主である幸子夫人が体調を崩し、応対できなかったからという。金井清一は1940年、新潟県の豪雪地帯で生まれ育ち、実家は米作農家でありながら米が食えない貧しさだった。中学を卒業すると鉱石ラジオを組み立てた成功体験を頼りに、秋葉原の電器店に就職。しかし、仕事は掃除かエレベーターボーイ。うんざりしていた金井清一をひきつけたのは、電器店の創業者が設けたビル屋上にある鳥かご練習場だった。

画像: 金井清一(レギュラー12勝、シニア17勝)。左写真は1976年日本プロ優勝時

金井清一(レギュラー12勝、シニア17勝)。左写真は1976年日本プロ優勝時

脱サラでプロゴルファーとなった努力の人、金井清一

ここで金井清一は片付けやボール拾いの合間、クラブを振ることの楽しさを知ったのだ。この鳥かご練習場が金井清一の運命を変えたといっていい。この鳥かごでひたすら自分のスウィングづくりに励む。はたからみれば恐ろしいほどの退屈な修練に見える。雪深い地に生まれた人特有の耐性か。こうして自分だけのリズムやテンポ、タイミングを持つナチュラルスウィングを手に入れる原型をつくった。ボールの行方が気にならない鳥かごだったからこそ、スウィングづくりに集中できたのである。

プロを目指し、電器店を辞めた金井清一は紆余曲折を経て上板橋のゴルフ練習場に就職。そして、25歳のとき、1965年、3度目の挑戦でプロテスト合格を果たす。初勝利は72年、日本プロ。日本プロは76年にも勝利し、ほかツアーの公式戦だった関東プロ、関東オープン2勝。公式戦男と呼ばれる由縁がここにある。コースセッティングが難しくなる公式戦に強いというのは、鳥かごでつくった正確無比で無駄のないスウィングのおかげだろう。レギュラー競技12勝。専属トレーナーをプロゴルフの世界に初めて持ち込んだのも金井清一だ。

運動生理学が専門の田中誠一東海大学教授の指導のもと、オフには体をつくり、ツアーにも帯同。唯一の海外での勝利、香港オープン(86年)の際に同行取材した際、ホテルで田中教授が当時まだ珍しいストレッチを施術していたのを目撃した。こうした体づくりがシニアツアー入りしてからも生きた。シニア競技17勝。そのなかには日本プロシニア2勝、日本シニアオープン3連覇と、ここでも公式戦男の面目躍如ぶりを発揮。賞金王も5回。アイデアマンで著書は44冊を上梓。その中には小社刊「ゴルフは歳をとるほど上達する」(田中誠一共著)もある。

2017年、日本プロゴルフ殿堂入り。裸一貫、地方から上京し、成し遂げた昭和の成功物語がまたひとつ姿を消した。

※週刊ゴルフダイジェスト2023年2月14日号「バック9」より

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