娘は飛行機移動、父は北海道から鹿児島まで自家用車でサポート
ワールドレディスチャンピオンシップサロンパスカップ最終日。降りしきる雨の中、正利さんは濡れたコースメモにペンを走らせていた。
「初日からのプレー内容を書いています。マネジメント会社の協力も得て、本人が後でコースマネジメントを考えるようにするためにです」
これは今季からの取り組みだが、桑木の出場試合に帯同し、毎ラウンド18ホール歩くことはプロデビューの21年シーズンから続けている。暑くても寒くても、雨風が強くてもだ。
正利さんは運転手も務めている。昨季は試合の開催地でレンタカーを借りていたが、今季は北海道、沖縄を除いて全て自家用車移動。長距離走行になる場合は、桑木だけを航空機や新幹線で移動させている。
茨城GC西C開催のワールドレディスチャンピオンシップサロンパスカップ後は福岡へ。桑木は航空機で先乗りし、正利さんは約1200キロの道のりを運転して現地に駆けつけた。
「いろんな荷物が積んであるので、自分の車が一番便利です。ただ、プロはコンディションが大事。移動で疲れさせないようにしています」
桑木は正利さんが45歳の時に生まれた。ゴルフを始めたのは、正利さんに練習場へ連れて行かれ、興味を持ったことがきっかけだ。桑木がボールを打つようになると、周囲がそのセンスを評価。小学生になった段階で桑木は「プロになりたい」と言い、正利さんは「プロにさせたい」と思うようになった。
プロテスト合格直前で亡くなった地元岡山の支援者のために……
障害者施設の職員だった正利さんは、施設の理事長(当時)からの理解で有休などが取れ、桑木の練習や遠征試合に付き添うことができたという。
「理事長には今でも深く感謝しています。妻からは『プロなんて、夢みたいなことを』と言われましたが、私は『今に見とれ』という思いでいました。娘も一生懸命で試合で優勝するようになり、妻も本気で応援し始めました」
ジュニアゴルファー育成に理解のある地元岡山県の環境にも恵まれた。桑木家は決して裕福ではなく、県内の料金が安価なゴルフ場でプレーできたことで救われた。そして、桑木は4学年上で同じ岡山市出身の渋野日向子と仲良くなり、その背中を追ってきた。
2019年夏には渋野が全英女子オープンで優勝。高2だった桑木のプロ志望はさらに強くなった。当時、渋野はRSK山陽放送の所属。同社の桑田茂社長は「岡山で渋野の次に来るのは桑木」と公言していたという。桑木とラウンドした際には、地元企業の関係者を紹介。そのお陰でプロテスト合格後、スポンサーが続々と決定したという。
今年4月からは岡山県内で婦人科を展開している三宅医院と契約。桑木にとっては、自身が生まれた医院からの支援となっている。
だが、桑田さんは21年4月9日、68歳で亡くなった。桑木はその2か月後、プロテストに一発合格を果たした。同12月には、ツアー最終予選会(QT)で13位。22年前半の出場権をつかみ、リランキングも突破して年間のメルセデス・ランキングは、シード権目前で準シードの51位だった。
そんな晴れ姿を見せることはできなかったが、今季は父子で「桑田社長の墓前に初優勝の報告をする」という目標を立てている。実現すべく、桑木はコースで戦い、正利さんはサポートを続ける。