プロゴルファーに人生の分岐点を聞く、月刊ゴルフダイジェストの人気連載「ターニングポイント」。2024年8月号は馬場ゆかりプロを取り上げた。みんなのゴルフダイジェストでは、初優勝までの軌跡を紹介していく。

福岡県八女市で教育熱心な父に育てられた。「習い事」がいつしか「仕事」になり、メジャータイトル獲得を成し遂げるまでになった。そして、33歳まで、シード選手として活躍したが、「女性としての次の人生」に目を向ける。結婚、出産、子育て。プロとして、ゴルフの楽しみを伝える、新たな「仕事」。素朴で純粋な女子プロが、第二の人生へと進む、ターニングポイント──。

画像: 馬場ゆかり/1982年、福岡県出身。小柄な体格ながらもダイナミックなプレーでファンを魅了。11年「日本女子オープン」で念願の公式戦初優勝。04年から14年まで11年連続で賞金によるシード権を保持。ツアー3勝(撮影/有原裕晶)

馬場ゆかり/1982年、福岡県出身。小柄な体格ながらもダイナミックなプレーでファンを魅了。11年「日本女子オープン」で念願の公式戦初優勝。04年から14年まで11年連続で賞金によるシード権を保持。ツアー3勝(撮影/有原裕晶)

プロなのに試合に出られないもどかしさ

ーー「何のコネもない自分は実力で上がっていくしかない」

「天真爛漫」。
無邪気な明るさと、ゴルフに対する純真さと。自身を表す四字熟語そのもののような幼少期を、馬場ゆかりは過ごしてきた。

プロを目指していたわけではなく、テレビでさえ女子プロは見たことがなかった。習い事の一つとして球を打ち始め、「やめようと思ったことはなかった」というその先に、プロテスト一発合格と、見知らぬ晴れ舞台とが待っていた。

うちの家業は「くみ取り屋さん」です。今は「清掃業」っていうのかな? 10名弱の職人さんに囲まれて育って、賑やかな環境でした。父の信弘は中学を卒業してすぐ働きに出たので、私と兄妹にはちゃんと教育を受けさせたかったみたいです。習字、ピアノ、剣道と、毎日習い事をさせてくれて。そして、月水金の週3日が、ゴルフでした。

忙しかった父が直接教えてくれたわけではないんです。8歳からクラブを握らせてもらったのですが、いきなり近所の練習場のレッスンプロに預けられました。プロにさせようというわけではなく、あくまでも教育の一環でした。

様々な習い事を経てプロゴルファーに

画像: 「ゴルフよりも皆でできる剣道が好きで、のめり込んでいた」というが、選んだのはプロゴルファーの世界。バイクの免許を取って、練習場へ通った(撮影/有原裕晶)

「ゴルフよりも皆でできる剣道が好きで、のめり込んでいた」というが、選んだのはプロゴルファーの世界。バイクの免許を取って、練習場へ通った(撮影/有原裕晶)

ゴルフは、当初は好きではなかったです。田舎だから小学生ゴルファーなんて誰もいません。それに試合に出て成績がひどいと、父からのゲンコツが痛いんです(笑)。今になってみると、それでもやめようと思ったことはなかったから、真剣に続けることの大切さを、父が教育してくれていたのかもしれません。

高校までスポーツ推薦での進学はせず、父が「学力で受験しなさい」と、地元の高校を受験しました。ドライバーはそこそこ飛んでいたかもしれませんが、自分にどんな特徴があったかさえ覚えてないくらい平凡な選手でした。高校3年生の進路面談までは大学に進学するつもりだったんです。ところが日本ジュニアで3位になると、父が「プロテストを受けてみろ」と。

プロなんて言われても、私にはまったく実感が湧かなくて。テレビで父と観戦するのも、男子プロばかり。母の真理子が尾崎直道プロのファンで、私も好きでした(笑)。だから女子プロの名前さえ、ほとんど知らなかったですし。

そんな私がプロテストを一発合格してしまったんです。パッと見だとスムーズですけど、部分的には苦しいときもあったんですよ。自分に喝を入れるたびに髪を切っていたら、合格のときにはすごく短くなっちゃった!(笑)

当時はステップ・アップ・ツアーもわずかしかなく、プロになったとはいえ、試合に出られなくて。テレビを見ていたらアマチュアの宮里藍さんが試合にバンバン出ているのに、なんでプロの私が出ていないのって思いがありました。地元福岡の試合でさえも推薦をもらえず、もどかしかったです。何のコネもない私は、実力で上がっていくしかない。だからコースへ通って、バッグを担いでラウンドして、帰ってからも練習場とジムとプールで体を鍛える毎日でした。

プロデビュー戦のプロミスレディスは、コースが美しいし、練習ボールも新しいし、プロの試合ってすごく楽しいなって(笑)。何も知らなかったことも、試合に出られることに感謝していたことも幸いして、プレッシャーもなく、結果は11位。父からは、「プロにするまでが俺の役目や。あとはお前の人生やから、知らん」と(笑)。口数が少ない父の言葉だけに、重みがありましたね。

華やかな女子プロの世界に、金髪にミニスカートで九州から飛び込んだ。だが予選落ちが続く苦しい3年目の2004年。励みになったのは、先んじて初優勝を遂げてゆく同期たちの存在だった。その背を追うように、ヨネックスレディスで初優勝。それは、その試合で2位だった不動裕理の一強時代に楔を打つとともに、全日ノーボギーという快挙でもあった。

画像: 「“不動さんに一歩でも近づきたい”という思いが原動力でした」(撮影/有原裕晶)

「“不動さんに一歩でも近づきたい”という思いが原動力でした」(撮影/有原裕晶)

2004年は春から6試合で予選落ちしたんです。4試合連続での不通過もあって、苦しかったです。さらに体調を崩して、新幹線で母が薬を届けてくれた、なんてこともあったくらいでした。ショットが悪いわけではないのに、1打足りないのはなぜなのかと、自問自答していた日々でした。同期の竹末裕美さん、北田瑠衣さん、茂木宏美さんが次々と初優勝していたし、このままじゃ置いていかれるという思いでした。

8月のヨネックスレディスも、一強時代が長く続いていた、同じ九州出身の不動裕理さんに一歩でも近づきたい、その思いが原動力でした。初日、2日目とトップでも、不動さんが2位なので余裕なんて全然なくて。ただ、自分の武器だと感じ始めていたショット力だけは負けない気持ちで攻めていきました。結果、3日間54ホール連続ボギーなしでの初優勝。同期のみんなから祝福されて、プロの世界を何も知らなかった私は、同期に引っ張ってもらったようなものなんです。本当に仲間に恵まれました。

当時は女子プロ界が一気に盛り上がってきた時代でもありました。アイドルのような可愛らしいプロもたくさんいて、追っかけのギャラリーもいて。私も「ミニモニ。」していましたけど(笑)。デビュー戦から金髪に白メッシュで、横峯さくらさんのお父さんから「プロらしいね!」なんて言われちゃってました(笑)。当時応援してくれていたファンとは今でもSNSでつながっていて、ゴルフや食事会をしているんですよ!

いつかメジャータイトルを獲りたい。それが新たな目標になった。チャンス到来は2011年の日本女子オープン。勝てそうで勝てない試合が続いていたが、めげることなくシード権だけは保持してきた。

その粘り強さが、「和合」での高難度のセッティングで生きた。全員がオーバーパー、有力選手が優勝戦線から次々と脱落してゆくサバイバル。通算12オーバーという珍しいスコアで目標を成し遂げた。

取材・文/平山讓 写真/有原裕晶

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馬場ゆかりの日本女子オープン優勝や、その後の話は2024年8月号の「月刊ゴルフダイジェスト」、またはMyゴルフダイジェストのチェックをお願いします!

※2024年8月号月刊ゴルフダイジェスト「ターニングポイント」より一部抜粋

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