22年のメルセデスポイントランク51位から23年は10位、24年には初優勝から3勝(国内メジャー1勝)を挙げ躍進が止まらないた桑木志帆。22年から見続けて来たみんなのゴルフダイジェスト特派記者で24年から桑木志帆のコーチとしてサポートするプロゴルファー・中村修がシーズンを振り返った。

ツアー本格参戦3年目の2024年、初優勝を含むツアー3勝。メルセデス・ランキングを6位で終えた桑木志帆。手前味噌ながらコーチとして1年間帯同し、その成長に目を見張った一年でもありました。
 
彼女の2024年の戦いの記録をシリーズで書いていきたいと思っていますが、その前に、本記事では、彼女のブレイク前夜、2023年までの戦いを振り返ってみたいと思います。

画像: 新人戦「加賀電子カップ」でプロ初勝利を飾った桑木志帆(写真/大澤進二)

新人戦「加賀電子カップ」でプロ初勝利を飾った桑木志帆(写真/大澤進二)

彼女がプロに合格したのは、まだ高校3年生だった2021年のこと。翌年の出場優先順位を競うファイナルQTでも13位と上位に食い込むと、その年の新人戦で優勝と、華々しいデビューを飾ります。
 
その年はレギュラー2試合に出場してともに予選通過(36位タイ、24位タイ)。ステップ・アップ・ツアーでは5戦を戦ってトップ30を一度も外さず、トップ10に3度入ってその実力を示しました。

勢いに乗って挑んだ2022年シーズン、しかし彼女はレギュラーツアーの厚い壁に跳ね返されます。予選落ちは実に11回。トップ10フィニッシュは2回のみで、ポイントランキングは51位。2023年前半戦の出場権を得るのがやっと、といった状態でした。

私が彼女に出会ったのはこの2022年のことでした。スウィングを見てそのポテンシャルは感じていましたが、当時の彼女の持ち球は曲がり幅の大きなフックボール。それがもう少し改善されれば、レギュラーツアーで戦えるだろうと思っていました。

転機が訪れたのは、その年のファイナルQTの会場がJFE瀬戸内海と彼女の地元に近かったこともありインタビューを申し込んでいた私は、取材後、マネジメント会社やご両親などと会食をする機会がありました。聞けばチーム内に競技ゴルフ経験者はゼロ。2023年シーズンはどうするのかを聞くと、後援会会長からは「応援してください」との答え。応援って「がんばれ!」って言えばいいんですかと返すと「どうすればいいか?」と。

そこで私は、フックボールの曲がり幅を狭くすること、マネジメント面を改善するためにベテランキャディを起用することを提案しました。話の流れで私のインストラクター仲間の広島のインドアスタジオを紹介し、まずは現時点でのスウィングを計測し、どういうスウィングをしているのかを認識してもらいました。

画像: 21年の新人戦加賀電子カップ当時の桑木志帆のスウィング(写真/大澤進二)

21年の新人戦加賀電子カップ当時の桑木志帆のスウィング(写真/大澤進二)

さらに、飛球線後方からの動画の撮り方を教え、インパクト時のシャフトに重ねた線上にダウンスウィングでクラブが下りて来るようにアドバイス。すると、わずか2週間後には、線上をなぞるようなオンプレーンスウィングになっていました。驚きました。

「上から入れる感覚ですよね」

ごく当たり前のスウィング軌道のメカニズムを教えただけで、あとは自分の感覚とスマホ動画をすり合わせ、曲がり幅の少ないスウィングを短期間で手にしたんです。桑木は、それまでコーチについたことがなく、独学でレギュラーツアーまで這い上がってきた選手。そのゴルフセンスは凄まじいものがあるんです。

ただ、ニュートラルなオンプレーン軌道は、少しのズレで出球がドローにもフェードにもなるリスクをはらんでいます。自分がコントロールしやすい弾道をどちらか選ぶようアドバイスすると、「フェードのほうがコントロールできます」との返信がありました。

こうして、2022年のオフにドローからフェードに弾道を変え、2023シーズンへと向かうことになったわけですが、現在の自由自在にフェードを操るショットメーカー・桑木志帆の誕生はまだ少し先のこと。

事実、23シーズンの開幕から数試合は、これまでと狙い方やスタンスの向きが大きく変わったことで感覚に齟齬をきたし、引っかけたりフェードが強くなり過ぎたりとコントロールに苦労していました。アプローチやパットでプレーのペースが遅くなることが多く、流れを作れないという悪癖もありました。試合でも練習ラウンドのようにプレーできるよう、ルーティンから見直すことも必要だったんです。

最初の転機となったのは、ベテランの門田実キャディとコンビを組んだ12戦目の中京テレビ・ブリヂストンレディス。3日目の大雨でもスコアを崩さずに3位タイに入ると、そこから3週続けてベスト10フィニッシュを重ねます。

画像: 23年の「中京テレビブリヂストンレディス」で自己最高の3位タイでフィニッシュ(写真/大澤進二)

23年の「中京テレビブリヂストンレディス」で自己最高の3位タイでフィニッシュ(写真/大澤進二)

2度目の転機は、「アース・モンダミンカップ」でした。首位と2打差の8位タイで出た最終日は1打上位にいた申ジエ選手と同組。申ジエ選手は前半ショットの乱調に苦労しながらも耐えて後半に盛り返し、最終ホールのバーディで首位の岩井明愛選手をとらえると、プレーオフの末、見事優勝をつかみます。

そんな申ジエ選手と同組ながら73とスコアを落とし、18位タイで終えた桑木は、目の前で粘り強く最後まであきらめない申ジエ選手のゴルフを見て、悔しさのあまり「こんな自分は嫌い! 強くなりたい!」と心の底から思ったそうです。負けず嫌い魂に火がついた瞬間でした。試合を終えた翌月曜日にパッティングコーチのレッスンに連れて行くと、その週の「資生堂レディス」では櫻井心那選手とのプレーオフで破れはしたものの自己最高成績の2位とさらなる躍進を果たします。

画像: 23年の「資生堂レディス」で櫻井心那とのプレーオフに敗れた桑木志帆(写真/姉崎正)

23年の「資生堂レディス」で櫻井心那とのプレーオフに敗れた桑木志帆(写真/姉崎正)

プレーオフで負けたのはもちろん悔しかったでしょうが、コメントを求められた彼女は「自分の力不足」と発言。そう言える姿勢に、アスリートとしての大きな伸び代を感じました。どれだけ優勝を重ねた選手でも、勝った試合より負けた試合のほうが多いのです。トッププレーヤーほど敗れた悔しさを味わっているはずなのです。

ですが、まさかこの日の悔しさが来年のリベンジにつながるとは、この時点では思ってもいませんでしたが。

シーズンは続き、8月の北海道meijiカップでは父の正利さんが初日のスタート直前に倒れて救急車で運ばれるアクシデントに見舞われます。ここでもコンビを組んだ門田キャディは、スタートすると決断した桑木に対して「スタートするならお父さんの話は一切忘れてプレーに集中しよう」と背中を押しました。初日が終わって病院に駆けつけると処置が良かったこともあって容態は安定。桑木は最終日に6アンダーでプレーし、またも2位で終えました。

翌週の「軽井沢72」で5位タイ、「CATレディス」では3位と続くと、「富士通」で7位タイ、「マスターズGC」9位タイ、「三菱電機」11位タイ、と安定した成績で米女子ツアーとの共催大会である「TOTOジャパンクラシック」を迎えます。

その週コンビを組んだキャディが練習日に体調を崩し、急遽空いていた門田キャディを呼び寄せることに。初日から「65」のビッグスコアを2日間並べ首位タイに立つと、3日目も「66」で首位タイをキープ。勝てば米女子ツアーのシード権が得られる大一番で、首位タイで最終日を迎えることになりました。

画像: 23年の「TOTOジャパンクラシック」では稲見萌寧に惜敗し2位で終えた(写真/大澤進二)

23年の「TOTOジャパンクラシック」では稲見萌寧に惜敗し2位で終えた(写真/大澤進二)

が、緊張から体が動かなくなり、結果は稲見萌寧選手に1打及ばずまたも2位。門田キャディは「負けた選手には最後の仕事がある。泣くのは勝者を称えてからにしよう」と桑木に伝えたそうです。その言葉に従い、稲見を称えたあと、再び涙が溢れた姿が忘れられません。結局この年、桑木は前年の51位から10位へとポイントランクを大きく上昇させ、シーズンを終えました。

時折りアドバイスをしながらも、あくまで「みんなのゴルフダイジェスト」編集部員として見守った2023シーズンは、桑木志帆の成長と、さらに上を目指すための課題を見つけることができたシーズンでもありました。

初優勝こそ挙げられませんでしたが、夏前から通い始めたトレーニングの成果も出始めて技術も体力も大幅に向上。残るは初優勝に向けてパッティングとメンタルを磨き上げるだけでした。そのことを念頭にどんなオフを過ごせるか。果たして24シーズンはどうなるのか。
そこで、私に思いもかけぬオファーがやってくるのです。
【次回に続く】

This article is a sponsored article by
''.