運命の巡りあわせによってスポーツ史に偉業をもたらすことがある。甲子園を沸かせたPL学園の桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」が活躍した同じ頃、日体荏原高校に3人のジュニアゴルファーが集まった。伊澤利光、丸山茂樹、そして「今回の連載」の主人公、西川哲である。全国高校団体優勝の主軸として活躍し、日体荏原黄金時代を築いたメンバーのひとり。個人でも関東高校3連覇、日本ジュニアのタイトルも手中に収め、プロ入り後もツアー3勝を挙げた。伊澤、丸山だけでなく、多くのプロゴルファーが一目置く「西川哲のゴルフ」。これまで多くを語らなかった西川だが、その内容は意外なものだった。
画像: 上半身の我慢が飛ばしのパワーを作る【西川哲の“そもそも”ゴルフ論 #2】

プロゴルファー西川哲

19歳でプロテストをトップで合格(当時の最年少記録)。レギュラーツアー3勝の実績を持つ。現在は「バーディ赤坂24」を主宰。なお、バーディ赤坂24では初回【無料体験レッスン】を実施中

スウィングの基礎は練習量で作った

7歳の時、父親に練習場に連れられ、周りで練習する大人のスウィングを観察してイメージを膨らませていた西川は、10歳になり、初めてクラブを握り球を打った。そこから本格的にゴルフ漬けの日々が始まり、中学生に上がると同世代の子どもたちの存在を知ることで、競技ゴルフの道へと進んでいった。そして高校入学と共にゴルフ部に入部し、後に日本プロゴルフ界を牽引する個性豊かな面々と切磋琢磨する日々が始まった。

「中学の試合の時に伊澤利光さんと知り合って、お互いの家を行き来したり、練習したりと仲が良かったんです。高校をどこにしようかなって考えた時に、伊澤さんがいるところに行こうと日体荏原(現・日体大荏原)に決めたんです」(西川・以下同)

山下七郎監督が率いる日体荏原高校ゴルフ部に入部し、先輩の伊澤利光、後輩には丸山茂樹といった錚々(そうそう)たるメンバーと共に汗を流した。

「自分のキャリアの中でゴルフが上手いなと思えたのが、高校2年生から高校3年生の期間でした。関東ジュニアを10打差で優勝したり、関東高校選手権を3連覇、日本ジュニアに優勝したんです。その時は打ったら全部まっすぐ行くと思うくらい良かったんです」

画像: 1985年の緑の甲子園では伊澤利光、丸山茂樹と共に全国優勝を果たした

1985年の緑の甲子園では伊澤利光、丸山茂樹と共に全国優勝を果たした

10歳からクラブを握ってたった7年でジュニアゴルフの数々のメジャータイトルを総なめした。その様から周囲は“天才”と称された。しかし西川は「才能よりも圧倒的な練習量」で作り上げた物だと話す。

「クラブを握った時から365日、1日たりとも休んだことはなかったんですよ。父親が厳しかったのもあり、40度の熱が出ようが土砂降りの雨だろうが欠かさずに球を打っていましたから。その積み重ねがあったからこそです」

西川はジュニアゴルファーの親から相談を受けた時に、自身の経験と重ねて練習量の大切さを説くという。

「親御さんから『うちの子は試合になると上手くいかない。練習ラウンドではスコアも良いし、球も曲がらないんです。どうしたら上手く行くと思いますか』と相談を受けることがあるんです。どのくらい練習しているか聞くと、週4〜5日と答える方が多いんです。それじゃ足りないですよと。上手くなるために常に時間がないと思うくらいじゃないと上には進めないんです」

何かをやり遂げたいと思ったら、そのためにひたむきに練習をした。「私も伊澤さんも丸山も集中力が違いましたから」と振り返った。

当時は今のようにスマートフォンで自分のスウィングを撮影し、すぐにチェックできるわけではない。また現在のようにスウィング理論が溢れていたわけではない。だから「打った時の打球結果」を元に、頭の中で想像し、試行錯誤を繰り返した。そしてその積み重ねが練習量の多さであり、西川のスウィングを作り上げた。

さらに高校時代の仲間は皆、共通していることがあった。それは飛ばし屋だったことだ。

▶▶▶ジュニア時代に西川が気づいた「スウィングの基礎」とは?

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