【1930年に起こった出来事】
▷第1回サッカーワールドカップ開催
▷全日本体操連盟設立
▷「上野広小路」の地下に地下鉄(現・地下鉄銀座線)が開通
【1931年に起こった出来事】
▷満州事変
▷3輪自動車の本格的生産開始
戦前(1930年)に開場した「岡山霞橋ゴルフ倶楽部」

写真は関東から比較的アクセスの良い「KOSHIGAYA GOLF CLUB【PGM】」
庶民の味方ともいわれ親しまれている河川敷コースは、家から近い、予約が容易、リーズナブルな料金という手軽さが人気の秘密といえるだろう。
温暖な気候で比較的年間雨量も多く、国土の約7割が山岳地という日本には大きな河川があり、それに伴い河口部には広い面積の河川敷がある。
台風や大雨などでは増水により河川敷は冠水してしまうこともあり、建造物の設置や、樹木の植栽をすることは河川敷法で禁止されていることから有効利用するには制約がある。そこに目を付けたゴルファーがいた。岡山の大地主大橋平右衛門で1930年のことだった。
大橋は高梁川河口でボールを打っていたが、ある日の帰りに河川敷にコースを造れるのではと考え、岡山県から3万坪の河川敷を借りることができた。コースの名称は吉備ゴルフクラブで最初は3ホールだったが、全国12番目、中四国で最初、もちろん岡山県初のゴルフ場でもあった。31年に6ホール、34年には9ホールの規模になり岡山ゴルフ俱楽部とした。

函館GC/プレー中の旧8番グリーン(昭和11年)
初代理事長は大橋平右衛門だったが、2代目理事長は君島一郎。この君島は北海道最初のゴルフ場、函館GCを設立した人物だ。君島はロンドンでゴルフを覚え、日本銀行函館支店長として赴任すると、市内の柏野でボールを打っていたが、やがて3ホールのコースを造ってしまった。といっても造成したわけではなくティ―イングエリアを決めグリーンらしき場所にカップを埋めたという簡素なものだったようだ。ニューヨークでゴルフを覚えた平野信男が噂を聞きつけ君島を訪ねてきたことから、自分たちのゴルフ場を造ろうとなり函館競馬場の柵内に君島の設計で6ホール、1860ヤード、パー24のコースを開場させ函館ゴルフ俱楽部を設立した。
43年には戦況の悪化に伴い岡山ゴルフ俱楽部のコースは閉鎖され、三菱重工が買収し錬成道場に転換されてしまった。だが、終戦の1年後には再開することができた。いち早く再開できたのは三菱重工がゴルフ場として残すために錬成道場の名目で取得したのだという秘話がある。

岡山霞橋ゴルフ俱楽部の8番ホール
53年、ゴルフ人口の増加に伴い倉敷市内の帯江銅山跡地に9ホールのコースを造り岡山ゴルフ倶楽部とし、従来のコースは霞橋ゴルフ俱楽部とした。60年に河川敷コースで唯一の社団法人コースになった。現在は一般社団法人岡山霞橋ゴルフ俱楽部。
肝心のコースだが、規模は9ホールで全長は3001ヤード、パー35で、2回プレーすることで18ホールとなる。グリーンは高く盛られた砲台グリーンでアプローチの距離感が難しい。
コース自体は高梁川河口にあるが、海からの潮流を制限する潮止めより下流にあることからシーサイドコースでもあり、事実、プレー中は潮の香りが漂い、他の河川敷とはかなり異なる雰囲気を持つ。
文・写真/吉川丈雄(特別編集委員)
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースやゴルフの歴史のスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動中