1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材し、現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員として活動する吉川丈雄がラウンド中に話題になる「ゴルフの知識」を綴るコラム。第22回目は、優勝間近でプレーオフを放棄したデビッド・ストラスについて。

プレーオフを放棄したデビッド・ストラス

画像: プレストウィックGC

プレストウィックGC

1860年から始められた全英オープンは最も古いオープン競技だ。第1回大会は、10月16日にスコットランドのプレストウィック駅近くのパブ、レッドライオンインに集まり競技についての会合が行われ、勝者に贈られるベルトが披露された。翌17日の正午に会合が終わると、歩いてプレストウィックGCに向かったのはトム・モリス、ウィリー・パーク、アンドリュー・ストラス、ダニエル・ブラウン、チャールズ・ハンター、アレックス・スミス、ウィリアム・スチールの8人だった。プレストウィックGCのコースは駅と並行していて歩いてもわずかな距離だった。ちなみに1番ホールは駅のホームと並行していてスライスを打つと簡単に打ち込んでしまう。事実、打ち込んだゴルファーを知っている。

集まったのは全員がプロで、競技は12ホールを3回プレーするというものだった。第1回大会から1872年までプレストウィックGCで行われたが、翌73年はセントアンドリュースで開催され、以降プレストウィックGC、セントアンドリュース、マッセルバラで行われ91年まで続いた。1860~70年までは優勝するとベルトを1年間保持する名誉が与えられ、3回連続優勝するとベルトを所有することができ68、69、70年と連続して勝者となったトム・モーリス・ジュニアが獲得している。

画像: セントアンドリュース オールドコースの18番Hにあるスウィルカンブリッジ

セントアンドリュース オールドコースの18番Hにあるスウィルカンブリッジ

71年は開催されなかったが、その理由はベルトを寄贈したエグリントン卿が死去したからだとされている。72年から勝者にはカップが贈られることになり1860~70年はTHE BELT、72年からはTHE CUPと表記され区別される。カップは古代ギリシャの酒瓶をデザインしたもので「クラレットジャグ」と呼ばれている。

大会はスコットランドで行われていたが、1894年からイングランドのコースが加わった。ちなみに94年大会はロイヤル・セントジョージスGC、通称サンドウィッチだった。

そんな中、1876年セントアンドリュースで行われた第16回大会で信じがたい出来事が起こった。

画像: デビッド・ストラス

デビッド・ストラス

ボブ・マーティンとデビッド・ストラスは86・90の同スコアとなり、全英オープン初めてのプレーオフが行われることになった。暫く休憩した後、勝負を決着するために関係者はティーイングエリアに集合したが、なぜかデビッドは時間になってもやって来なかった。いくら待っても現れないことから同スコアのボブ・マーティンが優勝することになった。

デビットはどこに消えたのか。プレーオフと決まった時、デビットはなんとセントアンドリュースから自宅のあるノースベリックへ帰ってしまったのだった。

デビットは70、72年大会で2位に入ったほどの実力者で、兄のアンドリュー・ストラスは65年大会で優勝をしている。

家に帰ってしまったデビッドは、プレーオフを戦わなかった理由を語っていない。70、72年に2位に入り、そして76年優勝と同スコアを記録したことで競技に対する情熱が冷めてしまったのだろうか。

なお、その後のデビッドは1878年オーストラリアに渡り、79年病死している。

文・写真/吉川丈雄(特別編集委員)
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースやゴルフの歴史のスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動中

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