
1966年12月号、週刊ゴルフダイジェストが「別冊」の頃の表紙。右端が河野光隆(左・杉本英世、中・光本幸子)
河野は1941年(昭和16年)、神奈川県横浜市の生まれ。兄は“リトル・コーノ"こと河野高明。兄と同じく中学を卒業後、父が勤務していた程ヶ谷CCでキャディをしながら修業。
1963年にプロ合格。栄光はその2年後に突然やってきた。1965年、川越CCで開催された日本プロ。初の入場料を取った試合で30度を超える気温のなかで開幕した。時の名手・強豪たち── 中村寅吉、陳清波、小野光一、藤井義将ら──を破って初優勝したのが新鋭・河野であった。
それも2位に6打差をつける圧勝で、最終日はコースレコードの65を叩き出し、それまでの国内トーナメント新記録の通算15アンダー。一躍、プロゴルフ界に新星が出現したのだ。
翌1966年には2試合、米国遠征してサンディエゴオープンでは予選通過を果たしている。そして迎えた日本プロ。舞台は総武CC。24歳の若武者はまたも、橘田規、栗原甲子男、内田繁らの実力者を一蹴し、前年に続き2連覇の偉業を達成してしまうのだ。
しかも前年、自らが記録した国内トーナメント記録の15アンダーを更新する17アンダー。驚異の爆発力は年齢の近い当時の若い学生ゴルファーは刺激を受けた。168cm、64kgの細身ながら、爆発力の源はアイアンのショット力にあった。
アイアンはスポルディングのトップフライトでロゴが赤い文字だったので、通称「赤トップ」と呼ばれたモデルを駆使して、ピン根元へビタビタ……。付いたニックネームが“ペッタン"。
河野の活躍をきっかけに、学生ゴルファーから一般アマチュアへと赤トップブームが到来。日本の用品界は潤ったという。
兄・高明はマスターズなどで活躍し、国内通算17勝を果たし日本ツアーをリードした一人(2010年没)。弟・光隆は兄より先に世に出たが、計5勝止まり。ただあの2年間の輝きは語り継がれる。後半生はレッスンプロとして過ごした。性格温厚、優しい人柄は誰にも慕われ、そのスクールは人気を博したという。
しかし、最後に在籍したという練習場や、かつて所属したゴルフ場に連絡すると、今は誰も河野を知る人はいなかった……。昭和という時代はもはや霧の彼方にある。団塊世代である当方には一抹の寂しさが胸をよぎった。合掌
(特別編集委員・古川正則)
※週刊ゴルフダイジェスト2025年8月19日&26日号「バック9」より