日本におけるゴルフクラブの対抗競技の始まり

神戸GC
クラブ対抗戦は、多くのコースで行われているがその歴史を探ってみた。
開港以来、外国人が居留した横浜根岸の丘陵地に1866年、日本初の洋式競馬場が江戸幕府により造られた。トラックは1周1774メートルで、当初は外国人専用の競馬場として運営された。観客は正装が義務付けられていた。
欧米のレーストラックは概ね左回りだったが、根岸で左回りをすると最終ゴール直前が上り坂になることから右回りとされ、そのため日本の競馬場の多くは右回りになったといわれている。ちなみに、現在も存続している天皇賞、皐月賞は根岸競馬場が最初だった。
1901年になると会員から競馬場の柵内にゴルフ場建設の提案がなされ、06年ニッポン・レースクラブ・ゴルフ・アソシエーションが設立され、11月23日に9ホール、2477ヤード、パー33の根岸コースが完成した。日本最初の神戸GCのグリーンは、砂を油で固くしたサンドグリーンだったが、横浜は日本最初の芝によるグリーンで、フェアウェイにも芝が敷き詰められていた。競馬開催時に球の飛び出しなどの事故が起こることからゴルフのプレーは出来なかったが、多くの外国人がゴルフを楽しんでいた。
やがて神戸GCと親睦を兼ねて対抗戦をしようとなり、07年神戸対横浜のクラブ対抗戦が始まった。
第1回インターポートマッチは8月4、5日の2日間で行われた。初日の4日はシングルス8試合が行われ、5対3で神戸GCが勝利。2日目の5日は午前中フォーサム4試合が行われ、2対2の引き分けになり、神戸GCの勝利となった。29年までの21回大会まで神戸と横浜で交互に対抗戦が行われた。特筆すべきは4日に神戸GCの会員J・A・マックギルが254ヤードの18番ホールをワンオンさせたことだ。当時のクラブ、ボールから思えば快挙といえるだろう。
同じ07年に、神戸GCと横浜とで日本アマチュア選手権を開催することになり、10月20日に神戸GCで開催された。両クラブが200円ずつ供出し優勝カップを製作。このカップは海外持ち出し禁止とした。

東京GC駒沢
競技は36ホールのメダルプレーで参加料は3円だった。当日は土砂降りの荒天でスコアを崩す選手が続出したが、横浜のA・B・ローソンが159で優勝を果たした。当然ながら日本人選手の参加はなく、神戸と横浜に居住する外国人同士の競技だった。初めて日本人選手が参加したのは16年のことで、アメリカ滞在中にゴルフを覚え帰国した東京GCの会員一色虎児だった。成績は14人中13位と振るわなかった。
競技は17年まで互いのコースで開催されたが、18年になると東京GC駒澤で開催され井上信が日本人として初めて優勝をした。24年になるとジャパンゴルフアソシエーション(後の日本ゴルフ協会)が設立され25年以降、日本アマチュアゴルフ選手権は協会の開催競技になった。
戦後の47年に本競馬場とコースは米軍に接収され、9ホール、1522ヤード、パー29のコースになり最長273ヤード(2番ホール)、最短122ヤード(7番ホール)だった。70年に返還されるまで米軍のコースとして存続していた。現在は根岸森林公園となり市民の憩いの場となっている。
文・写真/吉川丈雄(特別編集委員)
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースやゴルフの歴史のスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動中