時代に翻弄された短命コースの物語

信太山GCの図面
大阪最初のゴルフ場は1925年開場の茨木CC、2番目のコースは大阪GC(1937年)とされている。1929年大阪と和歌山を結ぶ阪和電鉄は信太山駅(しのだやま)を設置したが、利用客は少なく閑散としていた。江戸時代、信太の北には神社の神官や巫女が暮らす陰陽師村があったといわれる地域だ。
阪和電鉄が信太山駅と和泉府中駅の中間地点の丘陵地にゴルフの練習場を完成させたのは1935年、翌36年5月には9ホールを完成させ38年に18ホールになり、信太山ゴルフリンクスとして開場。建設地は藤澤薬品工業(現在アステラス製薬)が防虫剤の樟脳やセルロイドの原料生産のためにクスノキを植えたが育成に適しなかったことから一部を残し売却した土地だった。
コースを設計したのは、1936年ベルリンオリンピック大会に水泳競技の審判員として参加した上田治だった。ちなみに上田は旧制茨木中学時代に100メートル背泳ぎで日本記録を樹立した水泳選手だった。

昭和14年(1939年)3月1日に発行された当時のゴルフ雑誌「ゴルフドム」より。
上田は京都帝国大で林業、造園を学び、チャールズ・H・アリソンが設計した廣野GC建設に参加した経験があった。オリンピック終了後、9カ月に渡り当時の最新コースを視察している。スコットランドにイングランド、そして大西洋を渡り米国の最新コース、パインバレーGCやベスページに赴き、パインハーストでは設計者ドナルド・ロスに会っている。西海岸にも足を伸ばしペブルビーチGL、サイプレスポイントCなども訪れ、帰国後に当時のゴルフ雑誌「ゴルフドム」に見聞録を寄稿している。
信太山ゴルフリンクスは、当初18ホール、4865ヤード、パー68だったが最終的に6190ヤード、パー70の規模になっている。阪和電鉄が経営していた当時のプレー料金は平日2円、日祝4円、キャディフィーはランクがあり20、30、40銭で、レッスンは1時間60銭で担当したのは所属の上田悌造プロだった。
会員数は200名、開場日には宮本留吉、戸田藤一郎、森岡次郎のプロが来場して上田悌造プロと模範競技をしたとされている。
肝心のコースは池越えなどがあり、かなり戦略性の高いモダンなコースで上田治としては門司GC(1934年)次ぐ2番目に設計したコースだった。
40年に阪和電鉄は南海電鉄に吸収され、南海電鉄は同年に開場した大阪GC 淡輪と信太山GLの2つのコースを所有することになった。
37年当時の経済成長率は24パーセントと好景気だったが、同年に支那事変が勃発し30歳以下はプレー禁止となってしまい、戦局の悪化に伴い隣接する陸軍野砲連隊や軍需工場として徴用され43年3月30日に信太山GCは解散してしまったが、解散前の42年に大阪市が健民生活指導所設営のため買収した。この健民生活指導所が具体的に何を目的とした施設なのか資料がなく不明とされるが、恐らく戦時下で兵役適齢期の青年などを対象にした合宿所ではないかと想定される。
戦後になると大阪市立信太山青少年野外活動センターとされ、キャンプや野外活動の拠点として使われている。地番は現在の泉佐野市になるが、大阪市が買収したことから現在も大阪市の飛び地とされている。
上田治設計のモダンなコースは戦争により短命に終わってしまったのは非常に残念な出来事でもある。
文・写真/吉川丈雄(特別編集委員)
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースやゴルフの歴史のスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動中