1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材し、現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員として活動する吉川丈雄がラウンド中に話題になる「ゴルフの知識」を綴るコラム。第35回目は、本格的リンクスだった『イタンキGC』について。

日本人ゴルファー第1号が設立に参画

画像: 函館GC:造成中の見晴コース

函館GC:造成中の見晴コース

北海道ゴルフの歴史は、函館GC、小樽GC、そして室蘭GCと続く。

イタンキ浜は、東に太平洋、西は室蘭港、北を望むとそこには胆振の山並み。風光明媚な地だ。しかも市街地に隣接してアクセスはかなり良かった。スコットランドのリンクスのように海から吹き付ける強い海風、その強い風の影響か背の高い樹木は無く、砂地で野芝と灌木が生えているだけの荒々しい景観もリンクスそのものだった。

1929年、この地にコースを造る計画でイタンキゴルフクラブを設立したのは日本製鋼所の一色虎児と、水谷叔彦だ。一色は三井物産ニューヨーク支店駐在中にゴルフを覚え、1916年横浜の根岸にあるニッポン・レース・クラブ・ゴルフ・アソシエーションで行われた第10回日本アマチュア選手権に日本人ゴルファーとして初めて出場した経歴を持つ。水谷は明治時代1896年、イギリスの海軍大学に留学中ゴルフを覚え、日本人ゴルファー第1号とされる人物だ。

イタンキ浜の市有地20万坪を借りると、3072ヤード、パー36の9ホールを完成させた。設計したのは日本製鋼所の萩原英一だった。コースを設計するにあたり、萩原は霞ヶ関CCの赤星四郎、藤田欽哉、井上誠一に教えを請い完成させた。最初はフェアウェイ、グリーンとも野芝だったが、萩原が育成したベント芝をグリーンに使い、日本一のシーサイドコースだと高い評価を得た。

画像: イタンキGC

イタンキGC

イタンキ浜には牧場があり、そのため放牧の牛からグリーンを守るためグリーンは針金で囲われた。バンカーはスコットランドのリンクスと同様に天然にできた窪地をそのまま利用した。31年になるとイタンキゴルフクラブを室蘭ゴルフ倶楽部に改称する。

戦後の54年に9ホールで再開したが57年に競馬場跡地の2万坪を借り18ホールとした。だが61年になると室蘭は急速に都市化が進み市と協議した結果、白鳥が飛来する郊外の高台と等価交換して移転することになり、新コースは室蘭GC白鳥コースと名付けられた。基本設計は井上誠一、現場では萩原英一が指揮をした。

現在、イタンキ浜はほぼそのままの姿で残されている。周辺に住宅やソーラーパネルが建設されているが、6ホールなら建設できる面積があり、市街地に近いこともあり「町興し」として本格的なリンクス建設を望む声もある。

文・写真/吉川丈雄(特別編集委員)
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースやゴルフの歴史のスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動中

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