1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材し、現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員として活動する吉川丈雄がラウンド中に話題になる「ゴルフの知識」を綴るコラム。第38回目は、数々の名ドラマを生み出してきた「プレーオフ」について。

全英オープンの衝撃!「プレーオフ拒否」とルール変遷

画像: 2024年「TOTOジャパンクラシック」にてプレーオフとなった竹田麗央(撮影/大澤進二)

2024年「TOTOジャパンクラシック」にてプレーオフとなった竹田麗央(撮影/大澤進二)

ゴルフの試合で最終日に同スコアのトップが2名以上いた場合、プレーオフによる決着が行われる。プレーオフには基本的に2種類あり、一つは1ホールを戦い、スコアの少ないほうが勝つというサドンデス方式、もう一つは3、4ホールを戦いスコアの良いほうが勝者になるというものがある。サドンデス方式では最初の1ホールで決着することもあれば、延々と同スコアでの戦いが続き9ホールを戦ってやっと決着ということもある。3、4ホールでは決着がつかない場合、その後は1ホールのサドンデス方式になることもあり、やはりなかなか勝負が決まらないこともある。

最も歴史のある全英オープンで初めてプレーオフが行われたのは、1876年セントアンドリュースでの大会だ。ボブ・マーティンとデビッド・ストラスが176の同スコアで上がり、プレーオフで優勝者が決められることになったが、デビッド・ストラスはプレーオフを戦わず家に帰ってしまい、ボブ・マーティンが自動的に勝者となった。記録ではストラスの「プレーオフ拒否」となっている。

全英オープンで2度目のプレーオフは1883年マッセルバラでの大会で、ウィリー・ファーニーとロバート・ファーガソンが同スコアだったが記録では159というストロークしか残されていない。1963年まで2ラウンドでのプレーオフが行われ、70年セントアンドリュースでのプレーオフではジャック・ニクラス72、ダグ・サンダース73と記録されていることから1ラウンドだったことが分かる。

では1895年から始められた2番目に古いメジャーである全米オープンではどのような記録になっているのか調べてみた。1901年マサチューセッツ州にあるマイオピアハントCで、ウィリー・アンダーソンとアレックス・スミスが313で並び、アンダーソン85に対してスミス86としアンダーソンが勝者になっている。優勝スコアが313、プレーオフが85と86とかなり悪いスコアに思えるが、実は会場となったマイオピアハントCは距離的には短いものの難コースとしても名高く、1898年の優勝スコアは72ホールで328、1905年は314、1908年322とこのコースでの全米オープンはアンダースコアを出すのはかなり難しいようだ。

全米オープンで最も有名なプレーオフとして語られているのは、おそらく1913年の大会だろう。若干20歳のアマチュア、フランシス・ウィメットが当時最強といわれたハリー・バートン、エドワード・レイを破ったからだ。

全米プロでの記録を調べてみた。全米プロは1916年から始められ57年までマッチプレーによって行われていたことにより決着はストローク競技とは異なる。最初のプレーオフは1961年オリンピアフィールドCCで行われた大会でジェリー・バーバー67に対してドン・ジャニュアリー68だった。

さて、ゴルフの祭典マスターズではどのような記録があるのだろうか。

画像: マスターズで撮影したジーン・サラゼン

マスターズで撮影したジーン・サラゼン

マスターズは1934年第1回大会が行われている。35年大会ではジーン・サラゼンが最終日に282でグレイグ・ウッドに追いつき、翌月曜日に2ラウンドのプレーオフに勝負は持ち込まれた。サラゼン144、ウッド149でサラゼンが優勝を果たしている。ちなみにTV放送やさまざまな記述で、ジーン・サラゼンが34年の第1回大会から出場しているとされるが、34年の開催期間は既にスケジュールが決まっていて招待を辞退する手紙をボビー・ジョーンズに送っている。だから、サラゼンは初出場、初優勝というわけだ。

79年大会では、最終日ファジー・ゼラー、トム・ワトソン、そしてエド・スニードによるプレーオフで戦われ、10番ホールは3人とも同スコア、2ホール目の11番でゼラーが勝負を決め優勝。この大会、15番を終えてスニードが3打差リードしていて誰もがスニードの勝利を確信していた。ところが16番ボギー、続く17番もボギー、最終18番をパーにすればスニードの優勝となるはずだったが、スニードのボールは非情にもカップの淵で止まってしまい会場は一瞬、静まり返ってしまった。スニードはカップを覗くようにして暫く待ったが、ボールはカップに転がり落ちなかった。ボギーとなり、結果的に突然3人によるプレーオフになった。栄冠をほぼ手中に収めていたスニードは多くのパトロン(ギャラリー)から悲劇の主として同情され、表彰式では茫然自失の表情だった。

文・写真/吉川丈雄(特別編集委員)
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースやゴルフの歴史のスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動中

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