日本ゴルフ界に確かな足跡を遺した川田太三氏の「お別れの会」が9月7日、東京會舘にて行われ、260人が参列した。弔辞を読んだのは川田氏と共にJOC(日本オリンピック委員会)で理事を務めたミズノ相談役会長・水野正人氏と、JGTO副会長・倉本昌弘氏。このお別れ会の後も日本ゴルフコース設計家協会主催、ごく親しい有志が集まる“偲ぶ会”と続く。人脈の広さを物語る証左だろう。改めてその生涯をたどりたい。

川田氏は1944年、東京で生まれ、父親の出身校でもある立教大学付属の小、中、高で学び、米国オハイオ州立大学へ留学。野球でドジャースにスカウトされたが、同学年の天才ジョニー・ベンチを見てプロ入りを断念。その後、立教大学へ復学。小学校から大学まで一緒で「俺、お前」の仲にキャスターの関口宏がいる。

大学卒業後、一般の会社へ就職したが、日本テレビ「ビッグイベントゴルフ」の翻訳を頼まれたことから、ゴルフ界へ足を踏み入れることになる。個人会社「(株)ティアンドケイインターナショナル」を設立し、ゴルフ界で仕事の幅を広げていく。

同時に自身も野球からゴルフに転身、父親も在籍している霞ヶ関CCへ入会。クラブチャンピオン5回、そして日本アマ、日本オープン出場も果たしている。

1980年よりJGA(日本ゴルフ協会)の各種委員(競技、規則、国際)を務め、世界アマ、アジア大会などの団長、監督を歴任。2014年、世界アマ(軽井沢72)招聘に尽力した。日本オリンピック委員会理事(2011~2014)も務めている。

当方が川田氏に初めてお会いしたのは1979年。当方がマスターズ取材、週刊ゴルフダイジェストの臨時増刊編集員として、「マスターズは米国のメジャースポーツの中でどの位置を占めるのか?」のテーマで話を伺ったのが始まりだった。アメリカのスポーツ全般、特にアメフット、ベースボール、そしてゴルフへの造詣が深かったからだ。その知識の豊富さ、そして立ち居振る舞い、人柄の爽やかさに圧倒され、その時から兄事するべき人だと勝手に思ったのだった。それは現在も変わっていない。長崎県の片田舎から出てきた者にとって憧れる眩しい存在だった。

仰々しさ、派手さを排し、白いボタンダウンシャツにレジメンタルのネクタイ、グレーのズボン、紺のジャケット、黒い革靴というトラッドな出で立ちが定番。キャディバッグなどもメーカーのロゴの入った大きなものでなく、無印の小さなバッグを好んだ。

R&Aの会員でもあり、全英オープン(1990~2010)、またUSGA(全米ゴルフ協会)主催の全米オープン(2002~2018)、全米シニアオープン(2005~2017)、またマスターズ(2000、2002)のレフェリーを務めた。

2013年、USGAは川田氏の長年にわたるボランティア活動を顕彰して、「ジョー・ダイ賞」を、米国人以外に初めて贈った。同賞はUSGAのなかでも最も権威ある賞のひとつで、日本人にはその重さがまだ理解されていない。川田氏が逝去の折、まっさきに追悼したのがUSGAで、同賞授賞式の川田氏のスピーチをホームページで流した。

世界のベスト100コースの第1位に選ばれることの多い、米国のパインバレーGCの会員でもあり、日本からたっての希望者を引率して毎年渡米した。

画像: 弔辞を述べるJGTO副会長・倉本昌弘氏

弔辞を述べるJGTO副会長・倉本昌弘氏

現在、JGAに川田氏のようなR&A、USGAとを親交を結べる人がいるだろうか?

TV解説者としても記憶に残る。NHKで日本オープン(1981~1993)、全米オープン(1981~1996)、民放ではハワイアンで、1983年青木功の優勝も伝えた。抑制の利いた解説は核心をつくもので玄人好みといわれた。「ここは黙って見ていましょう」の名セリフが今でも耳に残る。

著書も多数だが、小社刊「すごい!ゴルフコース品定め。」の編集に携われたのは当方にとって幸いであった。

川田氏の後半生を飾ったのはコース設計と改修だった。成田GC、イーグルポイントGC、千葉CC、大利根CCなど22コースの設計、28コースの改修を行った。何度か改修コースへお供させてもらったが、熱く語るコース設計論はゴルフ愛に満ちていた。最後の改修は山梨県にある小淵沢CC。まだ途中だっただけに亡くなる寸前まで、それを気にしていたという。

尊敬する設計者はアメリカンクラシックのチャールズ・マグドナルド、A・W・テリングハストで、飽きのこないナチュラルな設計哲学を愛した。そして「強気をくじき、弱きを助ける設計コンセプト」が信条だった。ゴルフコース設計者協会理事長(2013~2023)の重責も担った。

米国ゴルフダイジェスト誌「世界のベスト100コース」選定委員でもあった。

近い将来、ゴルフミュージアムで顕彰されなければならない人物といえよう。

閑話休題。女優の吉永小百合は従姉。蛇足だが、2カ月に1度、川田氏を囲む食事会を開いていたが、その会名は「小百合(ちゃじり)会」。ちゃじりとは幼少の頃、自分のことをサユリと発音できず、ちゃじりといったことに起因する。いつか、(小百合を)呼ぶからねといったまま、川田氏は旅立ってしまった。親睦会はこれからも続けるつもりだ。川田氏を記憶にとどめるために。その人を記憶し続ける限り、その人はまだ死んではいないのだから。私たちのこころに生き続ける――。

文/特別編集委員・古川正則  


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