今年7月、ゴルフ界に広く貢献された川田太三氏が82歳で亡くなった。四大メジャーのレフェリー、コース設計・監修者など、様々な顔を持つ唯一無二の人、川田氏の傍らで話を聞き、その姿を追ってきた2人が、氏の素顔とお別れの言葉をつづる――。
画像: 川田太三 1944年東京生まれ。立教小中高を経て米国オハイオ州立大学留学。帰国後、立教大学卒。日本アマ、日本OP出場。1980年、JGAの各種委員(競技、規則、国際など)を務め世界アマ選手団長・監督を歴任。また全英OP、全米OP、全米シニアOP、マスターズのレフェリー。02年、04年ボナラックトロフィ・アジア欧州対抗マッチ勝利監督。日本ゴルフコース設計者協会理事長。日本OP、全米OPなどTV解説や新聞雑誌に執筆多数。米GD社「世界のベスト100コース」選定委員。設計・監修コース22。改造・改修コース27。霞ヶ関CC、R&A、米国パインバレーGC会員

川田太三 1944年東京生まれ。立教小中高を経て米国オハイオ州立大学留学。帰国後、立教大学卒。日本アマ、日本OP出場。1980年、JGAの各種委員(競技、規則、国際など)を務め世界アマ選手団長・監督を歴任。また全英OP、全米OP、全米シニアOP、マスターズのレフェリー。02年、04年ボナラックトロフィ・アジア欧州対抗マッチ勝利監督。日本ゴルフコース設計者協会理事長。日本OP、全米OPなどTV解説や新聞雑誌に執筆多数。米GD社「世界のベスト100コース」選定委員。設計・監修コース22。改造・改修コース27。霞ヶ関CC、R&A、米国パインバレーGC会員

「週刊ゴルフダイジェスト 10月20日号」に掲載された、故・川田太三氏の追悼企画。実は誌面の都合上、愛弟子である武居振一氏(リンクス研究家・R&A会員)の手記は、泣く泣く大幅なカットを施しての掲載となっていました。

しかし、担当編集者からの「川田さんの偉大な功績と、愛弟子だけが知る人間味あふれる素顔を、一文字も削らずに届けたい」という強い熱意により、この度、WEB限定の【完全版】として全3回にわたり全文公開。その前編となる第1回を「みんなのゴルフダイジェスト」でも公開いたします。

川田氏を師と慕うリンクス研究家、武居振一さん。川田氏の推薦でR&Aの会員にもなった。長い時間を共に過ごした“弟子”からのオマージュ――。

1999年 友人の紹介で、『Choice(チョイス)』誌(小社刊)の読者パネリストの座談会に参加。席上、私のゴルフ歴、国内400コース以上、海外200以上の経験からパネリスト適任と合格を頂いた。ゴルフ界重鎮、金田武明氏、Choice編集長、西澤忠氏、そして川田さんが出席していた。

2000年 全英オープン。セントアンドリュ-ス。観戦に行った。太三さんのレフェリー姿を初めて生で拝見した。丸山茂樹の組に付いて14番ホールで彼が右にOBした時、私の目の前を太三さんが通り過ぎたが、背筋を伸ばして威風堂々、神々しくて声もかけられなかった。

2001年 たまたま、得意先から御殿場で開催の「WGCワールドカップ」の招待券を頂き、観戦に行った。練習グリーンを見学をしていると、後ろから「何してんの?」と。なんと太三さんだった。「覚えていてくれたんですか?」。「まだ英国は行ってるの?」「行ってます」。そんな短いやり取りの後、ポケットから名刺を出して「事務所にゴルフの本が沢山あるから来たら?」と声を掛けてくれた。天にも昇る気持ちで快諾。この一言が私の大きなゴルフ人生の転機になった。

その後、何回か事務所にはお邪魔したが、太三さんは忙しそうで、これといって話をしたことはなかった。

ある時、意を決して電話をして「今度食事しませんか?」「ああいいよ~」と有難い返事を頂き、代々木八幡の得意先のイタ飯屋で会った。その時の緊張は、あのNHKやクラウンズ解説「川田太三」を目の前にしていると思うと、高揚感でいっぱいになった。今でも忘れられない。話は専ら英国のリンクス談義だった。

2002年9月 太三さんから電話「来週暇? 鳥取に来ない?」「行きます」二つ返事だった。「米子の駅前で夕方待ってて」と、理由など話さず、ぶっきらぼうに話す口調は後々慣れてはきたが、最初は理解に苦しんだ。韜晦の人であったのは後々わかるのだが最初は戸惑った。細かい事は聞いて無いので訳分からず、米子駅前で待っていた。

その後、近くの料亭に連れて行かれ、お座敷には地元のゴルフ界お歴々の方が。なんと場違いな所にと大汗をかいてしまった。「武居先生は何処のコースがお好きですか?」と、先生扱いされた事を後で太三さんに聞くと「シンちゃんの事は、世界中のコースを知ってる人だと紹介しておいたから」。緊張から、その日も翌日も肩が張って、とても疲れた事を思い出す。

その夜遅く、ホテルで西澤忠さんと再会し、気に入られ「これから三人でコースや歴史を語るタウンミーティングをやろう」という話になった。その後メンバーが増え、もうひとりの恩人、当時JGAゴルフミュージアム参与の藤岡三樹臣氏と出会う。

その年の暮れに「成田ゴルフ俱楽部」の入会を薦められ即メンバーになった。

翌年。ほぼ毎月太三さんと「成田」に行った。いろいろな人を紹介された。三重県の山林王、諸戸精孝氏等。コースデザインやルールも教わった。

太三さんのデザインでお薦めの森永高滝GCにもよく一緒に行った。
「タウンミーティング」は隔月で行い、場所は太三さんの好みの店というのが不文律だった。

2005年 全英オープン。セントアンドリュース。一緒に行くことになった。忠さん(西澤)も連れて、太三さんがレフリーの間ミュアフィールドやガランでゴルフをして、最終日だけ観戦し、タイガーが優勝したのを見てロイヤルアバディーンに向かった。翌週の全英シニア会場。

太三さんも翌日現地アバディーンに来た。練習ラウンドの最中、ちょうど青木功が太三さんの顔を見るなり「タイチャン何でいるの?」。そうか2人は仲がいいんだ。忠さんも加わり、私は田舎者のようにその場面を太三さんにカメラで撮ってもらった。

その後、ハイランドのリンクスをいくつか回った。「全英では毎年来るけど、リンクスゴルフは初めてだよ」「はまるの分かるよ」と言ってくれた。とても嬉しかった。 

2006年 ホイレークでの全英オープン。タイガー優勝。「全米シニアと全英オープンの間、一週間暇だからロンドンで会おうか?」二つ返事「はい」。行きたいリンクスの話をしたら「シンちゃん。予約宜しく」。Royal Worlington & New Marcket。Royal West Norfolk。Hunstantonを予約した。ヒースロー空港で待ち合わせしたが、太三さんロストバゲージしてクラブや着替えも無いまま出発した。

途中で下着と整髪料(バイタリス)を買って、ケンブリッジに向かった。3コースを私のクラブを交代交代に使ってプレーした。3日目の夜に荷物が届いた。結局私が貸したゴルフシャツ1枚着たままで「英国はドライだから汗かかないよ」と。太三さんとの珍道中が懐かしくてたまらない。 

Royal West Norfolkでの出来事。私が予約したのでプロショップに支払いに行こうとしたら「行かなくていいよ。メンバーが来るから」と。

食堂に行くと英国紳士が待っていた。R&Aの友人で同じ全英レフェリーだと紹介された。要するに私が予約はしたけれど、太三さんは予め、メンバーさんにゲストとして予約をお願いしたらしい。 結局支払いは無かったので、代わりに夕食はご馳走した。

4日目最後の日、太三さんのお誘いでSunningdaleに行った。プレー後の夕方、太三さんはリバプールへ、私は南部のリンクスに行く予定だった。

ハウスでは、メンバーの故ジェフリー・ベロ氏を紹介され朝食をとった。二人の話を聞くと今回のオープンのルール話だった。

彼もR&Aのレフェリーだった。プレー後、べロ氏も一緒にリバプールに行く予定だと。結局プレー代は払わず、お世話になった4日間でした。

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セントアンドリュースでの威風堂々としたレフェリー姿から、クラブを忘れて借り物のウェアでラウンドした英国での爆笑珍道中まで——。川田太三氏から「本物のゴルフの空気」を肌で叩き込まれた前編。

続く【中編】・【後編】では、川田氏が世界ゴルフ界で打ち立てた偉大な足跡と、愛弟子だからこそ目撃できた「伝説の瞬間」が次々と明かされます。

◆【中編】の見どころ

  • 「次はシンちゃんかな?」
    2012年、還暦を迎えた武居氏に届いた、ゴルフの総本山「R&A会員」への極秘推薦。川田氏が長年かけて仕掛けた粋すぎる伏線回収とは?
  • USGA「ジョー・ダイ賞」授賞式の奇跡
    日本人初の快挙! 原稿も持たず登壇し、卓越したユーモアでアメリカのゴルフ界VIPたちを大爆笑させた伝説のスピーチ。
  • クレンショー、オメーラら名手たちとの絆
    「ヘイ、イージーサン!」世界のレジェンドたちが川田氏を愛し、次々と歩み寄る感動の光景。

中編はMyゴルへ  全文無料公開中

◆【後編】の見どころ

  • 知られざる「お洒落で洒脱なジャズ愛」
    ピアノバーで即興ブルース! バーズを口ずさむ川田氏のスタイリッシュな素顔。
  • 2022年全米オープン「ラスト・レフェリー」と日本への遺言
    19年間の任務を終えた男の功績と、世界の進化に取り残される日本のゴルフ界へ遺した「愛ある警鐘」。

後編はMyゴルへ  全文無料公開中

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