今週の「月→金コラム」は1990年3月ゴルフダイジェスト社刊「チョイスVol.53」に掲載されたアマ・ゴルフの世界「中部銀次郎、広野を往く」。甲南大の学生時代、中部銀次郎はこの名コースで技術を磨き、日本アマに初優勝したのもこの地であった。“生涯アマ”を通す中部がその「核」を培った第二の故郷を訪ねる――お話です。
中部銀次郎と広野ゴルフ俱楽部を訪れたのは昨秋のことだった。前夜、神戸のオリエンタルホテルに一泊した。半世紀前(昭和6年)に広野を設計した英国人設計家チャールズ・ヒュー・アリソンが泊ったホテルである。
『広野の歩み30年』という昭和37年に発行された同俱楽部の年史に次のような興味深い記述がある。
<それは昭和6年2月11日、紀元節であった。不便な道をアリソン氏と同行して伊藤長蔵氏と高畑誠一氏などが現地広野におもむいた。大変風の強い寒い日で、一行は農家で持参のウイスキーをかたむけ、体を温めた。そして松原を一時間半ばかり歩いた。
「よし! この実測図の上で考えながら設計しよう。三日間は私を静かにしておいてほしい。だれ一人の訪問も謝絶する」
アリソンはこう言ってオリエンタルホテルの一室にとじこもった。
四日目の朝、高畑氏がホテルに電話すると「できた」という返事。千二百分の一の高低図面に書き込んであるその設計図を一見して高畑氏は舌を巻いた。
設計図は絶妙と称してよかった。高畑氏は「これなら超一流のコースができる。実に傑作だ。これは万難を排して金を集めて貫わねばならないと思った」と述懐している>
そうゆう所縁の深いホテルを、奇しくも中部は下神した際の定宿にしている。英国風の重厚な落着きが隅ずみにまで流れ、安手なホテルに慣れた庶民にはかえって落着かないほどだったが、アリソンがこの一室にこもって「広野」の設計図を引いたのかと思うと感慨もひとしおである。
夕刻に着いたわれわれは部屋に荷を置くと、直ぐに三宮に出た。中部が甲南大の学生時代に過ごした想い出深い街である。旨いステーキの店があるから、案内してくれるというのだ。
「よく憶えてくれはりましたな」
下山手通りの“みやす”を捜し当てるのに少々時間を費やしたけど、店に入ると、席に着く間もなく店主が懐かしそうに言い、ほんまになあ、と、これは真っ赤なワンピースを派手に見せない粋な着こなしの店主夫人が言う。
「焼き加減はどないしましょう」
「ぼくは“中”」
というのが中部の注文だった。「ミディアム」など言わないところが、かえってシャレて聞こえる。炭焼きのヒレをニンニク醤油で楽しむ。肉でありながら歯ざわりは上等なペイストのように柔らかく、噛むと舌の上でとろける。しかも肉であることの“誇り”が込められている。
「何年ぶりかな、この味。ちっとも変らない」
旨い物は変わらない。いや変えないのだろう。中部は“みやす”の肉を賞味するのも今度の神戸の楽しみだったようである。
(1990年チョイス3月号 Vol.53より)
その②の記事はこちら↓↓
名手中部の技術を“発酵”させた名コース アマ・ゴルフの世界 中部銀次郎「広野を往く」②
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ゴルフは起こったことに鋭敏に反応せず…… アマ・ゴルフの世界 中部銀次郎「広野を往く」③
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視覚に訴える緊張感の緩和は「焦点」を狂わせる。アマ・ゴルフの世界 中部銀次郎「広野を往く」④