翌朝「広野」に着いたのは8時30分前後だった。中部には三つの“ホームコース”がある。大学に入るまでの少年時代の下関ゴルフ俱楽部、大学時代の「広野」、そして社会人になって東京に住むようになってからの東京ゴルフ俱楽部である。
それぞれに今日の彼を涵養したコースなのだが、とりわけ「広野」は彼のゴルフを“発酵”させたコースと言ってよい。
「広野」なくして中部のゴルフは語れない。高畑は設計原図をみただけで、超一流のコースだ、実に傑作だ、と感嘆したそうだが、以来、半世紀にわたって、いや今後もわが国の“冠”たるコースであり続けるであろう。発酵を前にした中部がこういうコースで切磋琢磨できたことはまことに幸運だったと言えよう。
下関時代に仕込んだ酵母は「広野」でフツフツとして、音をたてるようにして醸し出されたのだ。技術はもちろん、精神面でも。
一年余り前、やはり中部ともども石井哲雄を訪ねたことがある。石井は現在、兵庫のゴールデンバレーGCに所属しているが、プロとしてのスタートを切ったのは「広野」である。中部が同コースで日々研鑚を積んでいる時期は「広野」に在籍していた。
話は別だが、石井は中部の父君利三郎氏に可愛いがられていたそうで、昭和31年か32年頃「下関」で関西プロの招待競技があり、その競技終了後、利三郎氏に請われて中部少年と9ホール、ラウンドを共にした。
銀次郎のゴルフをみてくれ、ということだったのだろう。アプローチとパットが滅法下手な子だったという。利三郎氏自身、ハンディ3だが4の腕前だったが、いくらシングルとは言え、アマチュアである。いやシングルだからこそ“素材”を見抜く目があったのだろう。
この“素材”を下手にいじくり回すより、石井にみてもらったほうがいいという“親心”があったにちがいない。
そんな縁があって中部が甲南大に入学したのを機に「広野」に入会させ、石井にいわばゴルフの“後見人”を頼む成り行きになった。「広野」を選び、石井を選んだのは利三郎氏の慧眼だったと言えよう。
広野時代の中部はどのような<ゴルファー>であったか尋ねるためにゴールデンバレーGCへ石井を訪ねたのである。
ゴルフの奥義をきわめようとする思いがひしひしと伝わってきたという。“超一流”のコースがあるのに、ラウンドするのは稀で、日がな練習場でボールを打っていた。
石井はそれを見ているだけだったと言う。コースの雑用がない限り、“お付き合い”したそうである。ある時、今打ったボールの飛びざまと、これから打つ飛びざまとどう違うか見届けてくれ、という注文が出た。
中部としてはスウィングのどこかを変えて、ボールを打ったのだろうが、その飛びざまには表われない。同じような球筋で飛んで行く。本人は“変えた”と思っても他人にはその変化は気づかない。プロの石井の目をもってしても違いを指摘できないのだが、しかし中部としては何かしら答えを出しておきたいテーマがあったのだろう。
(1990年3月チョイスVol.53)
その①の記事はこちら↓↓
アマ・ゴルフの世界 中部銀次郎「広野を往く」①
その③の記事はこちら↓↓
ゴルフは起こったことに鋭敏に反応せず…… アマ・ゴルフの世界 中部銀次郎「広野を往く」③
その④の記事はこちら↓↓
視覚に訴える緊張感の緩和は「焦点」を狂わせる。アマ・ゴルフの世界 中部銀次郎「広野を往く」④