古くから交通の要所として栄えた港町・下関は中部銀次郎が生まれ育った地。ゴルファーであれば一度は訪れたい街です。

日本アマを6勝し、67年の西日本オープンでは並み居るプロを制し優勝。「プロより強い」と言わしめた日本アマチュア界の至宝は、下関市街を見下ろす名池山の高台で生まれ育ちました。

画像: 1965年に日本オープンにてローエストアマに輝いた時の写真。右写真の左は優勝者の橘田規プロ。中部銀次郎は翌年、同タイトルを獲ることになる

1965年に日本オープンにてローエストアマに輝いた時の写真。右写真の左は優勝者の橘田規プロ。中部銀次郎は翌年、同タイトルを獲ることになる

中部一族は当時、下関港を拠点に捕鯨やトロール漁業を行っていた「大洋漁業(現在のマルハ)」を営んでいた、いわば名士。銀次郎にクラブを握らせた父・利三郎は、下関の水産業界に多くの業績を残した人として、地元で今なお語り継がれる人物です。

画像: 下関ゴルフ倶楽部、クラブハウス入口付近で見つけた中部利三郎の銅像。下記しますが、利三郎はこのコースの創設者でもあります。

下関ゴルフ倶楽部、クラブハウス入口付近で見つけた中部利三郎の銅像。下記しますが、利三郎はこのコースの創設者でもあります。

そんな利三郎が響灘に面した景勝地、八ヶ浜に創設したのが「下関ゴルフ倶楽部」。高校時代の銀次郎が腕を磨いたこのコースは過去2回、日本オープンが開催されましたが、響灘からの海風が牙を剥くと、プロでもアンダーパーで回るのは難しいほどの難コースです(91年優勝者・中島常幸プロのスコアは2オーバー)。

画像: 下関市街から車で20分ほどの場所にある下関ゴルフ倶楽部。海のすぐ傍にある1番ホール(写真)が象徴的。

下関市街から車で20分ほどの場所にある下関ゴルフ倶楽部。海のすぐ傍にある1番ホール(写真)が象徴的。

バミューダ・コーライの2グリーンを持つ下関GCは会員の同伴または紹介がなければプレーできないのですが、もしラウンドするチャンスに恵まれたら、ぜひバミューダの日を選んでください。海風で固く締まった美しいグリーンは、夏場でも10フィートは軽く超えてきます。

画像1: 本州最西端の港町・下関紀行【前編・銀のゴルフを育てた街】

話を街へと戻すと、下関駅西口の竹崎、伊崎地区は、古くから一大飲み屋街として多くの酔客を集めます。最盛期には80以上の旅館、60以上の露店がひしめいたという下関きっての繁華街は、古くは坂本竜馬や高杉晋作が遊んだと言われる由緒正しい場所。その一角にある路地が、今回ご紹介する「まるは通り」です。

画像: まるは通り入口に見つけた「大洋漁業本社跡地」の石碑。現在はコインパーキングになっています。

まるは通り入口に見つけた「大洋漁業本社跡地」の石碑。現在はコインパーキングになっています。

その名の通り中部家に由緒あるこの通りは、ちょっと残念なことにウェブで検索をかけてみると、ちょっとピンクなお店ばかり。いや、行ってみないとその良さは分からないはず…!

画像2: 本州最西端の港町・下関紀行【前編・銀のゴルフを育てた街】

有名ドコロと言えばまず挙がるのは、松田優作が愛したと言うチャンポン屋「大阪屋」ですが、ここは通り過ぎ、奥へ奥へと歩きます。すると、ちょっとピンクなお店の看板が並ぶビルの一角に、渋いカウンターを発見。

画像3: 本州最西端の港町・下関紀行【前編・銀のゴルフを育てた街】

夜へ向けた前哨戦として、とりあえずうどん。歯応えのしっかりした麺にアゴダシの利いたスープがよく合うな…と考えながら、関門海峡に面したここ下関は、古くから九州、本州、四国の人々が交差する交通の要所だったことを思い出す。というのも、麺は讃岐うどんのような腰の強さですが、透き通ったアゴダシの汁は、まさしく福岡うどんの特徴そのもの。

画像4: 本州最西端の港町・下関紀行【前編・銀のゴルフを育てた街】

軽くビールを引っかけてお店を出ると、向には魅惑の「ラーメン」という四文字が。当然、先ほどまで麺類を食べていたことなど忘れ、突入です。

画像5: 本州最西端の港町・下関紀行【前編・銀のゴルフを育てた街】

出てきたラーメンは、薄目のトンコツスープに細いストレート麺。完全に博多ラーメンのそれと思いきや、からし高菜もゴマも入っていません。かなりあっさりした味ですが、これはウマい!

いかにも昔ながらな店構えを持つ2店。若き日の銀次郎も下関ゴルフ倶楽部で汗を流した後、ここで英気を養ったりしていたのでしょうか。

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