王者ダンロップにブリヂストンが挑む
1992年7月、全英オープン開幕を前にブリヂストンスポーツは現地でニューボールの記者発表会を行った。その数年前から行われていた開発には、使用契約を結んでいたニック・ファルドやジャンボ尾崎らが深くかかわっていた。
テストの過程でファルドは「20ヤードくらいフックをかけたいと思っても半分くらいしか曲がらない。真っ直ぐ飛びすぎて使えない」とムチャな注文をつけたりもした。
当時2ピースボールが話題になっていたとはいえ、ツアーの世界ではまだまだ糸巻きボールが主流だった。歴史的にみれば、ダンロップが優位だったが、多くのプロを擁するブリヂストンとしてはダンロップと勝負できる糸巻きの開発が史上の命題だった。
ファルドの困難な要求にも何とかクリアして完成したのが「ザ・レクスター」だった。
数日後、狙い通りにファルドはこの新球で3度目のジ・オープンのタイトルを獲得し、その後世界最強へと上りつめていく。
だが、市場は変わらなかった。国内では当時、ダンロップの強さが際立っていた。1990年シーズン。国内ツアーでは男女合わせて60勝を挙げ、勝率は実に7割を超えていた。この年の中嶋常幸もブリヂストンからダンロップに換えていた。
とりわけプロ使用球として信頼が高かったのが「ロイヤル マックスフライ」である。1986年に生まれ、当時すでに2ピースボールを使い始めていたプロもいたが、青木功をはじめ多くのプロたちは、やわらかなフィーリングとスピン性能とで、糸巻きバラタにこだわっていた。
この文字通り、「王者らしい(ロイヤル)」マックスフライは、「唯一の(ザ)」レクスターの挑戦を受けても、王座はまったく揺るがなかった。
だが、その座もいつまでも安泰ではなかった。ブリヂストンが糸巻きの一方で80年代半ばから進めていたソリッドボールの方向へと急激に舵を切ると、市場は一挙になびき90年代半ばになると形勢は逆転。1999年、尾崎直道がブリヂストンのソリッドボールで日本オープンを制したころ、糸巻きバラタカバーの雄は静かにフェードアウトしていった。
(月刊ゴルフダイジェスト2014年6月号より)