設計家としての上田の生き様を決定づけたのは、人生のど真ん中に経験した太平洋戦争だった。上田は、何を見て何を思い、ゴルフの中で生きてきたのだろうか……。
母校は日本で初めてプールを持った、大阪の茨木中学。上田は水泳部で背泳に打ち込み、100メートルで二度の日本記録を打ち立てる快挙を達成。物事に一心不乱に打ち込む気概を養った。
名匠アリソンとの出会い
京都大学在学時に上田は、廣野GCの設計で来日していたC・H・アリソンの助手としてコース造成現場で働く機会を得た。この経験が、後にコース設計家として活躍する礎となったのは間違いないだろう。
ベルリン五輪に審判として参加
上記のように、学生時代に水泳で活躍した上田は、1936年のベルリン五輪に審判としての参加が決まる。当時としては、非常に貴重な渡欧の機会を得た上田は、五輪の終了後にゴルフの本場、英米のコース視察をも決意したのだった。
上田を乗せた船は、当時の一般的な渡欧ルートに則り横浜港を発ち、西へ針路を取った。紅海、スエズ運河を経て地中海に入り、フランスの南部マルセイユに到着。そこから一行は鉄道でドイツに向かった。
五輪後、上田はすぐに英国に渡る。イングランドの内陸コースやスコットランドのリンクスを目の当たりにし、日本との様々な違いに驚いた。芝草の種類や管理方法も仔細に視察したという。
「陸地ながら、砂丘が多くてよいコース」と感想を記したカーヌスティGL。本場のリンクスに心底感動した様子を、上田は綴っている。
有名な設計法である”レダン”の故郷、ノースベリックGCにも赴いた。「妙味のあるホールが見受けられた」と上田は後に報告している。このコースから、いったい何を感じ取ったのだろうか……。
英国から米国。ゴルフの歴史が辿った道筋を…
続いて上田は、”ゴルフの故郷”英国から、米国へと旅立った。ゴルフそのものが辿った道を、上田自身も経験することになる。東海岸から上陸し、西海岸から日本に帰国。英国とはまた異なる、米国のゴルフを肌で感じ取ったのだった。
「大き過ぎるバンカーが初心者に厳しすぎるやうに思われる」と感想を記したパインバレーGC。ハイハンディキャッパーを苦しめる是非について、自問自答したようだ。コース設計の奥深さを改めて認識した視察だった。
パインハーストGCで、上田はある出会いを果たす。スコットランドからやってきたコース設計家、ドナルド・ロスとの邂逅。西洋の著名な設計家との出会いは、上田のゴルフ観に非常に大きな影響を与えたことだろう。
アリソンから受けたゴルフの本質
「『こんなのアリかよ!』と声を出して驚いてしまうようなホールを、上田さんはいくつか設けていることもあります。いったいどこにどんな球を打てばいいのか、ゴルファーは考える暇(いとま)を失ってしまうことさえあるんです」
こう語るのは、コース設計家の川田太三さん、中でも大阪GCの13番ホールを推す。「かまぼこを斜めに置いたようなフェアウェイに対し、プレーヤーには斜めに打たせます。そこに海風も加わって、ショットの楽しみが増す。複雑に見えて楽しい、こんなコースが英国にはけっこうあるんですよ」
大きく盛り上がった土地をフェアウェイに使い、離れ小島のような場所にティグラウンドを設置。その場所の土地をそのまま生かして作った、上田の傑作ホールのひとつである。
平らよりも起伏。真っすぐよりも斜め。ラインよりも幅。アリソンに薫陶を受けた上田設計の原点がここにある。この大阪GCで上田は、アリソンに学んだことを自分なりに昇華し、表現したいたのだ。
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※この記事は、月刊チョイス2010年10月号を再編集したものです