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33歳、若き設計家を襲った悲劇
私たちの廣野が壊されていく……フェアウェイは芋畑に、ラフは肥溜めに……
廣野GCの支配人をしていた上田治を、避けられない悲劇が襲う。それは、太平洋戦争の幕開けだった。国の命令によりコースは壊され、人々の食料となるサツマイモを栽培する農地となった。ラフには肥溜めが作られ、きれいに整備されていたグリーンは戦闘機の滑走路へと姿を変えた。
アリソンの設計図をもとに、自身も造成に携わった廣野。グリーンキーパーを経て、ついには支配人まで務めるようになった愛すべき廣野が、無残にも潰れていく。何より辛いのは、自分で造り管理していたコースを、自らの手で壊さなければならなくなったことだった。
忸怩たる思いで芝草を掘り返す上田の目からは、大粒の涙がこぼれたことだろう。国のため、人々のために土地を提供すべき立場に置かれた上田。この悲しい経験は、後の設計家としての信念につながっていくのだった。
コースを造って欲しいという思いには、応えなあかん
自らのコースを壊さなければならない悲劇を経験した上田。設計家として独立した後も、その辛い思いを忘れることは決してなかった。廣野の支配人時代に味わった寂しさや悲しさを、もうこれ以上誰かに経験させてはいけないと胸に刻んだ。
設計の依頼があれば時間の許す限り上田は仕事を引き受けていた。ゴルフジャーナリストの故・田野辺薫氏は生前、上田について次のように語っていた。
「関西地方は山岳や丘陵が多く、中にはゴルフコースなどとても作れない土地からの依頼もあったのかもしれません。それでも上田さんは『自然に勝る師はいない』という信念を持ち、コースを設計していたのだと思います。自分の知識をひけらかさずに、作品を見てもらって勝負する、生粋のクリエーターだったのではないでしょうか」
「平らな林間コースこそ至上」その風潮に上田は一石を投じ続けた
立体的なコースならば、いつまでも飽きないはずや。
日本にゴルフ文化が根付き始めた昭和30年代半ば、雑誌や新聞にはできたばかりのゴルフコースの広告が舞い踊っていた。その謳い文句は決まってひとつ。「松の林でセパレートされたフラットなチャンピオンコース」というものだ。設計家の川田太三さんが解説してくれた。
「ブルドーザーが登場し、土地を平らに均したコースこそが良いコースだという風潮があったのがその時代。しかしゴルフとは本来、上下、斜めにも打っていくゲームです。海外の名コースを見た上田さんは、なるべく立体的なコースをつくろうと心がけていたように思うんです」
上田が引き受けた仕事には、山岳や丘陵地帯を切り拓かなければならないケースも多々あった。与えられた土地で魅力あるコース造りを志す上田にとって、それは格好の素材だったのだ。
当時の一般的なゴルフコース設計は、なるべくフラットにすべく土地の平坦な部分を利用したり、斜面を重機で均して造成していた。距離を長くできるが、似たようなホールがどうしても多くなってしまう。
上田流のレイアウトは違った。天然の斜面や隆起をできるかぎりそのまま取り入れる。その土地の性格が色濃く現れ、魅力的なホールが数多く生まれた。
平野に凛と佇む名コースを多く作った井上誠一氏が「静の井上」と呼ばれるのに対し、うねる斜面をダイナミックに使ったコースを多く残した上田。剛のコースデザインが生まれた背景には、自身の悲しい経験を糧に、どこにでもコースを作ってやろうという気概があった。
※この記事は、月刊チョイス2010年10月号を再編集したものです
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