メイド・イン・ジャパンのシャフトが世界で認められた
カーボンシャフトが一般的になり始めたのは、ドライバーのヘッドがパーシモンからステンレス、そしてチタンへと変わってからである。ヘッド素材の変化は、シャフトにも相応の変化を求めた。
とりわけこの時代、カーボンシャフトの優位性、可能性を示したのがフジクラやグラファイトデザインであり、モデルでいえば前者ではスピーダー757、後者ではブルーGが代表だ。フジクラは90年半ば、剛性分布に着眼し、フィット・オンシリーズを開発。その後、3軸織物を採用、そのプロモデルとも呼ぶべきものが「スピーダー757」だった。
ヘッドが大きくなれば、重心距離は長く、重心深度は深くなるため、特に切り返し時やインパクト時にヘッドの挙動が大きくなる。これを抑えたのが3軸織物。たわんでもつぶれるが少なく、しなり戻りのスピードが速く、ヘッドの挙動も抑えられるので方向性も安定する。とりわけ感性が鋭い片山晋呉を筆頭に多くのプロたちが使ったのも納得できる。
スピーダーが追求したスピードと方向性。これはそのまま、グラファイトデザインの看板モデル、ツアーADシリーズのテーマでもある。とはいえ、スピーダーの後を追ったわけではない。フジクラがカーボンシャフトの製造に着手したのは70年代初め、グラファイトデザインの設立は89年だが、同社設立の中心となった山田恵元社長らはフジクラとほぼ同じ頃からオリムピックでカーボンシャフトの開発を手掛けていた。
そしてグラファイトデザイン社を設立した翌年、後に大ヒットしたJ'sメタルのシャフト、HM(ハーモテック)の開発で一挙に評価を高めた。その後、02年に同社のオリジナルブランドとして生まれたのがツアーADシリーズで、中でも核になったのがブルーGだった。米ツアー向けに開発され、グレッグ・ノーマンらが使っていたYSシリーズも評価が高かった。
フジクラが物理的な面から進化を追求したとすれば、グラファイトデザインはシャフトの“味”を追求することで評価を高めた。山田恵元社長は自ら図抜けた感覚の持ち主で、それがプロの感性とマッチした面も見逃せない。
その後、三菱レイヨンのディアマナやマミヤ・オーピーのアッタスなどが加わり、カーボンシャフト開発競争はますます熾烈を極めていくが、起点になったのがスピーダー757であり、ブルーGであり、両者はメイド・イン・ジャパンのシャフトが世界で圧倒的な評価を得る先駆けとなったモデルである。
文/近藤廣
(月刊ゴルフダイジェスト2015年6月号より抜粋)