現在の日本ツアーを支えているといっても過言ではない外国勢の活躍も、そのルーツをたどると男子では陳清波、女子では涂阿玉、2人の台湾出身ゴルファーにつながる。今週の月金コラムは「台湾ゴルフのDNA」と題し、台湾ゴルフの黄金時代を作り上げた陳清波と涂阿玉の話からその歴史や強さの秘密を紹介する。

これまで台湾ゴルフの歴史や強さの秘密を涂阿玉に語ってもらった。前回までの記事は↓↓↓

今回からは台湾ゴルフ界のもう一人の巨星・陳清波に台湾ゴルフの歴史を語ってもらいました。

画像: 陳清波 1931年、台湾出身 ツアー通算24勝を挙げる。 美しいダウンブローは日本人ゴルファーに多大な影響を与えた

陳清波
1931年、台湾出身
ツアー通算24勝を挙げる。
美しいダウンブローは日本人ゴルファーに多大な影響を与えた

陳清波からヤニ・ツェンへ技術は受け継がれている

陳清波 台湾の第一号プロは陳清水さん。彼は淡水GCのプロで、日本のゴルフ協会副会長の野村駿吉さんに誘われて日本に来て、日本オープン(1937年)と日本プロ(1953年)に優勝されています。その後川奈ホテルのプロになり、僕は昭和28年に川奈で陳清水さんに教わっているんです。

64年関東プロ
左 陳清波 右 陳清水

その後、陳清水に指導を受けた陳金獅陳火順の二人が台湾ゴルフ界を引っ張っていた。台湾では戦後、日本人が引き揚げてからゴルフをする人が少なくなり、プロは上海に行ったり廃業したりで、台北に残ったのはその二人だったのだ。

陳清波 私は、この陳火順さんに誘われて17歳でゴルフ場に入ったんです。最初はゴルフのショップボーイで、時々、師匠がコースに出るとバッグを担いだりしました。最初に師匠になったのは火順さんだけど、そのうち金獅さんの下でいろいろお世話になったので、二人が師匠ですね。

陳金獅はスウィンガー、陳火順はパンチショット。それぞれゴルファーとしてのタイプは異なっていた。その後、この二人は「新竹」や「台中」などにゴルフ場を設計した。

陳清波 二人は戦後の台湾ゴルフ界復興の最大の功労者ですよ。私はもちろん、台湾のゴルファーは皆、この二人を尊敬しています。

70年代に入ると、全英で2位になった呂良煥や謝敏男、謝永郁が日本ツアーで活躍し、台湾旋風を巻き起こした。

画像: 68年読売国際オープン 左 陳健忠 中央 陳清波 右 謝永郁

68年読売国際オープン
左 陳健忠 中央 陳清波 右 謝永郁

陳清波 その他70年代に活躍したプロは、陳健忠、陳健振(二人は陳金獅の子供)や郭吉雄(79年日本オープン覇者)、張春発。だいたい皆、淡水GCの関係ですね。それから陳志明、陳志忠兄弟は「淡水」ではなく、「林口」のプロ。林口は淡水の次に作られたコース。でも日本の我孫子派とか川奈派とかそういう派閥はないですけどね。

「林口」では陳志明、陳志忠兄弟が陳清波の指導を受けたという。その後ヤニ・ツェンが林口で腕を磨いた。ヤニは陳志明、陳志忠兄弟の影響を大いに受けた。すなわち陳清波から陳志明、陳志忠兄弟へ受け継がれた技術は、その後ヤニ・ツェンへ受け継がれたのである。

陳清波 林口の特徴は広くて長いコース。高台だから、ドロー系、フェード系、高い球、低い球、『4つの球』すべて打てるようになるんです。ゴルフはボールを曲げて覚えるもの。ボールを真っすぐ打つよりも、曲げながらフェアウェイへ打つ方が技術は上なんです。また「淡水GC」は各ホールで球筋を変えなくちゃいけないから、そこで育ったプロは皆、球筋を操るのが上手いですよ。

画像: 淡水GC 1919年開場の台湾で最も古いゴルフ場 海から吹き上げる強い風が刻々と変化しプレーヤーを悩まさせる

淡水GC
1919年開場の台湾で最も古いゴルフ場
海から吹き上げる強い風が刻々と変化しプレーヤーを悩まさせる

陳清波の口からも涂阿玉と同様に「4つの球」という台湾ゴルフのキーワードが語られた。でも、もう一つ、台湾のゴルファーを語る上で避けては通れないキーワードがある。「スクェアグリップ」だ。

「台湾ゴルフのDNA 」(vol.4)

※チョイス No.119より

「台湾ゴルフのDNA vol.5」では、陳清波の「スクェアグリップ」についてご紹介します。

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