ジャンボ尾崎が絶頂期だった20年前に、ジャンボ尾崎を学問的に分析していた。今でもその人気が衰えることのないジャンボ尾崎、20年前は一体どれほど人気だったのだろう。5日間に分けて、「経済学」「心理学」「政治学」「言語学」「宗教学」と分析して行こうと思う。第一回目の今回はジャンボ尾崎の経済学について触れてみよう。その前にジャンボ尾崎のおさらいから。
尾崎 将司。元プロ野球選手。本名およびプロ野球時代の登録名は尾崎 正司。1947年徳島県生まれ。当初は野球選手として名を馳せた人物であり、高校時代には徳島海南高校(現徳島海部高学)で活躍、1964年春のセンバツで初出場初優勝を成し遂げた。
翌年西鉄ライオンズへ入団するも、投手として結果を残せず、さらに同僚の池永正明の投球を見て自信を無くし3年目には打者に転向するがこちらもぱっとせず、結局この年で野球を辞めて西鉄を退団。その後プロゴルファー転向を決意し、1970年4月にプロテスト合格。野球選手として入団してから5年後にはプロゴルファーに。
プロゴルファーとしての輝かしい経歴は翌1971年の日本プロゴルフ選手権での初優勝に始まり、1973年のマスターズで東洋人初となる8位入賞、更に1974年の日本オープンゴルフ選手権も優勝と多くの大会で活躍し、同世代のライバルである青木功、そして中嶋常幸と並びAON時代と呼ばれるゴルフの一世代を築くこととなった。
その後も賞金王を10回以上獲得するなど第一線で活躍し、2010年には数々の偉業を讃えられ世界ゴルフ殿堂に登録されるなど、日本ゴルフ界を代表する選手の一人である。2013年には日本男子レギュラーツアー史上初のエージシュートを、年齢より4打低いスコアで達成している。
今でも勢いの衰えないジャンボ尾崎を経済学的に紐解いてみよう。
20年前のジャンボ尾崎の経済効果
広告業界では「視聴率1パーセントにつき1億円の経済効果がある」と言われている。当時のフィリップモリスまでの32試合、関東地区の最終日の平均視聴率は6.52パーセント。これがジャンボ尾崎が出場した15試合では8.44パーセントとなり、さらに優勝した4試合に限れば9.15パーセントまで跳ね上がる。
ジャンボが欠場もしくは、失格した17試合のそれが5.75パーセントだから、ジャンボ尾崎が出場するだけで約2億6000万円、優勝すれば約3億4000万円の経済効果があるという計算になる。
巨人が優勝しても株価に反映されないが、ジャンボ尾崎こそ当時はバブル崩壊の救世主だったのだ。驚かされるのはこればかりではない。J'sブランド商品の売上高は、年間約100億円以上。これは販売元であるブリヂストン・スポーツの全ゴルフ関連商品の総売り上げの約4分の1を占めていた。
当時のサラリーマンの平均年収は約500万円。なんとクラブやボールやシャツ・パンツにJ'sと印刷しただけで2000人分の給与を生み出すのだ。J'sブランドだけでこれだけの巨大市場。「ジャンボ尾崎というゴルファーがいなかったら…」と考えるだけでゾッとするのは何もゴルフ関係者ばかりではないだろう。
こうした指摘もあながち冗談ではない。たとえば雑誌にしても、当時ジャンボの企画は売れると言われていた。そこには原稿を書き写真を撮る人ばかりでなく、印刷屋さんや本屋のおじさんだってわずかとはいえ恩恵を浴びているはずだ。
ジャンボ尾崎に足を向けて寝られない人々がいたのは間違いない。
1995年月刊ゴルフダイジェスト10月号より
【ジャンボ尾崎を学問する】