静まりかえるギャラリーはそこに神の存在を感じる。
ジャンボ尾崎がアドレスに入る。するとギャラリーは静まりかえる。いや、もの音ひとつ立てることがはばかられるような厳かな空気がそこに流れる。
「どうして?」
と聞かれても困るのだが、声さえかけられぬ神聖さがそこにはある。まだゴルフを知らぬ子供や、ジャンボに否定的なファンであって「黙らざるを得ない」ことが、ジャンボの持つ神聖不可侵なオーラを雄弁に物語っていることだろう。
こういう風景はどこかで見たな、と思っていたら、伊勢神宮の横綱の奉納の土俵入りを思い出した。
国技館では声援を送れる横綱でも、この瞬間ばかりは声をかけるのがはばかられる。無意識の中で、横綱を神に仕える聖職者と感じているためであろう。どんなに無宗教を主張する人間であっても、境内にある巨大な御神木に小便をかけられぬのと同じように、祭司である横綱は、ただそれだけでありがたい。
余談だが伊勢神宮のある三重県出身の双羽黒は、自分のことを「ボク」と呼んだ。神に通じる非日常の象徴である横綱が世俗な「ボク」では具合が悪い。だから横綱にはなりきれなかった。
非日常を感じた時、人は神の存在を知る。そして非常人のまえでは静まりかえる以外に手はない。
ジャンボのアドレスから始まる一連のスウィングは、人を黙らせるには十分だ。それはまるで宗教的体験のようである。
伊勢神宮に限らず、あらゆる宗教的空間……神社仏閣であれ、協会であれ、あるいは信仰対象である山であれ……厳かな気分を味わった経験は誰にだってあるだろう。
物見遊山で訪れたジャンボの出場するトーナメント会場は、まるで伊勢神宮。祭司ジャンボのファッションさえ、テレビでは理解不能な超越したカッコよさだったりする。
そしてスウィングを前に黙る以外にないことを誰もが思い知らされるはずである。
1995年月刊ゴルフダイジェスト10月号より
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