スクェアグリップ獲得のため1日1ミリずつ向きを変えていったというプロの凄み
陳清波プロが、最初に日本を訪れたのは昭和29(1954)年。23歳のときだった。陳清波プロは、永井延宏氏との対談集『ゴルフファンダメンタルズ』(ゴルフダイジェスト社=2000年刊)のあとがきで「私がゴルフを始めたのは17歳からですが、腕前を上げたのは23歳のときに台湾から日本にやって来て川奈ホテルゴルフ場で半年間ほどスウィングの勉強をさせてもらったのがキッカケです」と話している。
そして「このときにスクェアグリップを覚え、そこから私のスウィング理論が徐々に構築されました」と続く。
当時、川奈ホテルゴルフ場には、陳清波プロが師と仰ぐ同じ台湾出身の陳清水プロがいた。陳清水プロは、浅見緑蔵、宮本留吉、安田幸吉、戸田藤一郎、中村兼吉らのプロたちとともに昭和10(1935)年4月にアメリカ遠征に加わっている。さらに陳清水プロは同年12月に戸田藤一郎プロとともに再度渡米。ウインターツアーにも参加し、アメリカ各地を転戦した。陳清水プロは若いころから理論家肌で、このアメリカ遠征でもプレーのみならず、新しいアメリカの技術を勉強してきたことは十分に考えられるところだ。
川奈ホテルゴルフ場には、実力者プロが多かった。石井茂プロをはじめ、石井迪夫、石井哲雄、杉本英世、内田茂、石井富士夫などのプロたちである。
実は、この中の石井茂プロもスクェアグリップ派だった。陳清水プロに教わったのか、あるいは自分で編み出した方法なのか、今は知る由もないが、かつて私が石井茂プロを取材したときに、彼の口から「私はベン・ホーガンよりも先にスクェアグリップで打っていましたよ」と聞いている。
いずれにしても、川奈ホテルゴルフ場のプロたちの間では、ホーガンが提唱する以前から、スクェアグリップが独自に採り入れられていたのは事実である。陳清波プロが、フックグリップからスクェアグリップへの改良を決意したのも、こうした川奈ホテルゴルフ場の独特の環境があったからこそであろう。
陳清波プロは、自分がそれまで身につけたフックグリップを1日1ミリの単位で矯正し始めたという。しかも最初のうちはフルスウィングではなくショートスウィングから始めたそうだ。おそらく来日前の陳清波プロの握り方は、両手のV字形が右肩のほうに向いていたはずである。
それを毎日、V字の先端を目に見えないくらいの動きで右肩から鼻筋のほうへ向けていったというのだ。握りに違和感を覚えないようにという考えでそうしたのだが、察するにこの間は、果たしてスクェアグリップによる新しいスウィングがものになるか、陳清波プロにとっては、それこそ毎日が地獄の葛藤だったに違いないし、プロの凄みを感じる。
後になっての話だが、西田升平プロと話をしたとき「プロのスウィング改造は大変なんです。たとえばトップで両手の位置を1センチ上げようとすると、完全に自分のものになるまでには、1年はかかるでしょうね」と教えられた。プロのスウィングは1年や2年ででき上がったものではなく、1日千回の素振りとか、1日千個のボールを打つとか、われわれの想像を超える練習でつくり上げられたものである。「一気に直そうとすると、フォームがガタガタになってしまうんです。それでツアープロを辞めた人もいるくらいです」と西田プロは、スウィング改造の難しさを語る。
陳清波プロが「1ミリずつ近づけていった」といったのも、彼の敏感な頭脳が、そのへんの危険を察知していたからに違いない。
陳清波プロはこうしてスクェアグリップを獲得するのだが、このスクェアグリップは、陳清波プロ自身のモダンスウィングを完成させるための原点であり、日本のゴルフ技術の進化のためにも、大きな第一歩になったといえる。
「ゴルフ、“死ぬまで”上達するヒント」(ゴルフダイジェスト新書)より