目土袋の携行は廣野から始まった。
芝生は美しい植物ですが、なにしろ物言わぬ弱い生き物です。その芝生に「ごめんね」や「おかげさまで」の気持ちを抱かないゴルファーのことを、ゴルフ・コーチのシーヴァス・アイアンズはひどく蔑みます。
いわく、ゴルフは凶器同様のクラブでグラウンドの芝生を止むを得ず傷つけるゲーム。プレーを続けるためには傷つけた一打一打の後始末をしなければならないのに、それをしないゴルファーがなぜ多いのか。
「自分の作ったディボット跡を埋めようとしないゴルファーがいるが、そんな人間の送る一生はすぐに予測がつく」という剣幕です(マイケル・ マーフィー著『王国のゴルフ』山本光伸訳)。
ターフを拾い、目土して後始末して行く人が昔もいまもいないではありません。そういう当たり前のことをする人に倣おうと、十年ほど前に私の仲間たちピーターズクラブでは、各自の目土袋をプレーの必携品にしました。
石川遼君が小・中学校時代に練習に来ていた古河GLでのセルフプレーです。同じくここをホームコースにしている地球ゴルフ倶楽部も目土袋携行に同調してくれました。他にもそうしているグループがあるという嬉しい話がよく伝わってきます。

自分で作ったディポット跡は埋めるのがマナーのひとつ
もっとも、いつも追加注文する先のゴルフ用品の大手、ライト社の担当者に「最近出荷が増えているでしょう」と言ったところ、そういう動きはとくにないとのこと。世の大勢はディボット跡の後始末を自分でしないゴルファー。ゴルファー全体をコース中の芝生の葉の数だとしますと、私たちのような後始末ゴルファーはまだまだターフ一片分程度の葉っぱの数に過ぎないようです。
仲間の中には、布袋が擦り切れたり汚れきっていま二個目三個目を使っている人もいます。ところが布袋の汚れ方が少なく、きれいなままの人もいます。「あなたは物をだいじに使う人だ。毎回クリーニングに出しているんだね」と冷やかされます。汚れ具合でよそでどういうゴルフをしているかがわかってしまいます。よそでプレする時はキャディにやらせたり、目土袋をバッグにしまったままらしい。
本音を聞くと、よそで一人目土袋を下げてプレーするのは、いい子ぶってるようでどうも照れる、気恥ずかしい、と言います。いい行いをすることが恥ずかしいとは困ったことです。いやいや、ディボットの後始末を善行などと思うことが間違いです。しないことのほうが恥ずかしい。バンカーのショット跡をならすことや、グリーン上のボールマークを直すことと同じではありませんか。
日本ゴルフ史の偉人の一人、高畑誠一さんは、ウッドクラブのヘッドカバーを発明したことでも有名ですが、目土袋の生みの親でもあります。著書『ゴルフルール百科全書』でこう書いています。「一九三五年の秋と思うが筆者は廣野で目土袋を作らせ、これをキャディに携帯させてプレー後充填させた。いま各クラブがこれを実行させているのは喜ばしい」
高畑さんには「キャディに携帯させ」ではなく「廣野ではプレーヤーに携帯させる」 として、後世に伝えていただきたかったなと思います。
「脱俗のゴルフ 続・ゴルファーのスピリット」(ゴルフダイジェスト新書)より
撮影/姉崎正